イタリア式コメディ
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イタリア式コメディ(: Commedia all'italiana、: Italian Comedy Style)は、イタリア映画ジャンルである。マリオ・モニチェッリ監督の『いつもの見知らぬ男たち』(1958年)に始まり、ピエトロ・ジェルミ監督の『イタリア式離婚狂想曲』(原題 Divorzio all'italiana, 1961年)からその名称をいただいたとされる。長い間この言葉は、軽蔑的な意図で使われていた。
略歴・概要

1940年代から第二次世界大戦後にかけて、イタリアでは「ネオレアリズモ」のムーヴメントが起こる。

1950年代後半から1960年代にかけて、この「ネオレアリズモ」に衝撃を受けた世界中の若者たちが、イギリスではロンドンフリー・シネマからブリティッシュ・ニュー・ウェイヴへの動きを生み、フランスではパリヌーヴェルヴァーグが生まれ、ジュネーヴを中心としたスイスではヌーヴォー・シネマ・スイスが、ポルトガルではリスボンノヴォ・シネマが、ドイツではオーバーハウゼン・マニフェストからニュー・ジャーマン・シネマが、ポーランドではワルシャワポーランド派が、チェコスロヴァキアではプラハチェコ・ヌーヴェルヴァーグが、大西洋を隔てたアメリカではニューヨークニューヨーク派(オフ・ハリウッド)が、ブラジルではサンパウロリオデジャネイロシネマ・ノーヴォが、そして遥か日本でも、東京日本ヌーヴェルヴァーグが起きるという、ただならぬ状態になっていた。

しかし、イタリアでは1950年代に入ると、官能味を帯びた「ネオレアリズモ・ローザ」(伊語Neorealismo rosa、「桃色ネオレアリズモ」の意)と呼ばれる作品群が生まれはじめる。それまで脚本家だった20代、30代の若手がつぎつぎに映画監督となり、艶笑ものの他愛のないコメディ、ショートコント集、オムニバス映画が量産されていくのである。その流れのなかで1950年代後半に生まれたのがこの「イタリア式コメディ」なのである。

やがて1960年代中盤以降になると、ヨーロッパは、艶笑オムニバスの合作など、このコメディの新しいムーヴメントに巻き込まれていくことになる。
代表的スターヴィットリオ・ガスマン、1956年(『戦争と平和[1]マルチェロ・マストロヤンニ、1961年(『イタリア式離婚狂想曲』)

ヴィットリオ・ガスマンウーゴ・トニャッツィアルベルト・ソルディニーノ・マンフレディが1960年代、1970年代の「イタリア式コメディ」の4大トップ・スターであり、ステファニア・サンドレッリモニカ・ヴィッティジャンカルロ・ジャンニーニ、マリアンジェラ・メラート、カトリーヌ・スパークらニューカマーがそれを追った。あるいは、ドラマティックなスターがコミカルな役を演じた例に、マルチェロ・マストロヤンニクラウディア・カルディナーレがいる。
作家と作品

1961年ディーノ・リージは、現在ではカルトムービーとなった『追い越し野郎』を撮り、その後『困難な人生』(1962年、日本未公開)、『怪物たち』(1963年、日本未公開)、『イタリア人民の名において』(In nome del Popolo Italiano, 1971年、日本未公開)、『女の香り』(Profumo di donna, 1974年、日本未公開)を監督した。

モニチェリの作品には、『戦争・はだかの兵隊』(La grande guerra, 1959年)、『明日に生きる』(I compagni, 1963年)、L'armata Brancaleone (1966年、日本未公開)、Vogliamo i colonnelli (1973年、日本未公開)、『人気小説』(Romanzo popolare, 1974年、日本未公開)、そして『私の友だち』(Amici miei, 1975年、日本未公開)がある。

同ジャンルにおける有名な映画作家には、エットーレ・スコラルイジ・コメンチーニステーノ(ステファノ・ヴァンツィーナ)、アントニオ・ピエトランジェリナンニ・ロイ、あるいはリナ・ウェルトミューラーがいる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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