イタリア・ロシア戦域軍
Armata Italiana in Russia
イタリア・ロシア派遣軍の閲兵式を行うムッソリーニ
創設1941年7月10日 - 1943年2月
国籍 イタリア
軍種陸軍
上級部隊イタリア王国陸軍
主な戦歴オデッサ包囲
セヴァストポリ包囲戦
スターリノの戦い
ブラウ作戦
天王星作戦
小土星作戦
イタリア・ロシア戦域軍(英語:Italian Army in Russia、イタリア語:Armata Italiana in Russia)は、第二次世界大戦の東部戦線に派遣されたイタリア陸軍部隊。
派遣当初の3個師団規模の際には「イタリア・ロシア派遣軍」(英語:Italian Expeditionary Corps in Russia、イタリア語:Corpo di Spedizione Italiano in Russia (CSIR) )と呼ばれた。 1941年6月22日、バルバロッサ作戦開始後すぐにムッソリーニは東部戦線への遠征を準備するように軍部に伝えた。ただでさえ軍の物資や装備が不足する中の計画に少なからぬ軍高官が反対している。ヒトラーも東部戦線への派兵をムッソリーニに無理強いせず、代わりに北アフリカ戦線への増援を要請した。ムッソリーニ自身もヒトラーの対英戦を放置した二正面作戦を「狂気」と批判したが、それ故に対英戦の勝敗を云々する状態ではなくなったと判断していた。部隊は温存されていた精鋭の自動車化師団、快速師団、山岳師団から編成され、機動性は十分にあったが対戦車戦力が極めて欠乏しており、T-34戦車との戦闘が不安視されていた。 司令官は初め、フランチェスコ・ジンガレス大将が務める予定だった。しかし輸送中のウィーンで病に倒れた事から1941年7月14日、ジョヴァンニ・メッセ中将に交代した。メッセはムッソリーニの見栄を重んじるような無計画な装備での遠征を批判しつつも、優れた采配で軍を率いて戦果を得た。しかしドイツ軍からの増援要請にも反対した為、遂に解任され北アフリカ戦線のドイツ・イタリア戦車軍の指揮官へと移された。一方、北アフリカから入れ替わる形で後任に着任したイータロ・ガリボルディ大将(リビア総督)は逆にドイツ軍の戦争計画に協力的であり、それが元で戦後の戦争責任を問われることとなった。 1941年7月10日、独南方軍集団に参加したCSIR(イタリア王国軍ロシア派遣軍)は、まず独第11軍の隷下部隊としてオイゲン・フォン・ショーベルト大将の指揮下に入った[1]。8月14日、エヴァルト・フォン・クライスト元帥の第1装甲集団に転属、10月25日に同部隊が第1機甲軍に再編された後も留まっている。以降、1942年6月3日にリヒャルト・ルオッフ上級大将の第17軍と合流してルオフ軍集団(Heeresgruppen Ruoff)を編成するまでCSIR軍はクライスト元帥のもとで戦った。 ブグ河近辺でソ連赤軍第9軍の先遣部隊と接触した自動車化師団『パスビオ』はベルサリエリからなるオートバイ中隊に前線を突破させる事でこれを撃破、3500名のソ連兵を捕虜するという幸先の良い初陣を踏んだ。続いてヴィーキングSS装甲師団のドニエプロ・ペトロブス地方での戦闘を助け、エバーハルト・フォン・マッケンゼン将軍の評価を得ている。CSIR部隊はドイツ軍や同盟軍とともにドニエプル川を渡河し、ペトコリフカ市を守備するソ連軍3個師団を巧みに包囲殲滅して1万3000名の捕虜と80門の野戦砲を鹵獲した。ペトコリフカ市の占領作戦はエヴァルト・フォン・クライスト元帥からも賞賛され、戦力としての信頼は確立された。
背景
編成
第一次派遣
独第11軍
第3快速師団『アオスタ侯アメデオ皇太子』
第9自動車化師団『パスビオ』
第52自動車化師団『トリノ』
第二次派遣
伊第8軍
第35軍団
第3自動車化師団『アオスタ侯アメデオ皇太子』
第9自動車化師団『パスビオ』
第52自動車化師団『トリノ』
第2軍団
第2歩兵師団『スフォルツェスカ』
第3歩兵師団『ラヴェンナ』
第5歩兵師団『コッセリア』
山岳軍
第2山岳師団『トリデンティーナ』
第3山岳師団『ユリア』
第4山岳師団『クネーンゼ』
第156歩兵師団『ヴィチェンツァ』
黒シャツ連隊『1月3日』、『3月23日』
司令官
フランチェスコ・ジンガレス(- 1941年7月)
ジョヴァンニ・メッセ(1941年7月 - 1942年7月)
イータロ・ガリボルディ(1942年7月 - 1943年2月)
戦歴
イタリア王国ロシア派遣軍(1941年8月 - 1942年7月)スターリノを包囲するロシア戦域軍