イタリアグランプリ
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この項目では、フォーミュラ1のレースについて説明しています。ロードレース世界選手権のレースについては「イタリアグランプリ (ロードレース)」をご覧ください。

Italian Grand Prixモンツァ・サーキット

レース情報
周回53
コース長5.793 km (3.600 mi)
レース長306.720 km (190.596 mi)
開催回数93
初回1921年
最多勝利
(ドライバー) ミハエル・シューマッハ (5)
ルイス・ハミルトン (5)
最多勝利
(コンストラクター) フェラーリ (20)
最新開催(2023年):
ポールポジション カルロス・サインツ
フェラーリ
1:20.294
決勝順位1. マックス・フェルスタッペン
レッドブル-ホンダRBPT
1:12:13.618
2. セルジオ・ペレス
レッドブル-ホンダRBPT
+7.686s
3. カルロス・サインツ
フェラーリ
+11.674s
ファステストラップ オスカー・ピアストリ
マクラーレン-メルセデス
1:25.072

イタリアグランプリ(イタリアGP、: Italian Grand Prix、: Gran Premio d'Italia)は、イタリアで行われる自動車レース。現在はF1世界選手権の1戦として開催されている。

イタリア国内で行われた、イタリアGP以外の名称をもつF1レースも本項目で記述する。
概要

ヨーロッパ発祥の国際グランプリとしては、フランスグランプリ1906年に初開催)に次いで1921年に創設された伝統あるイベントであり、途中中断を挟みながら継続開催され続けている。1950年以降は、同年に発足したF1世界選手権に組み込まれ、F1において同一名称のグランプリが1年も欠かさず開催されているのは、このイタリアGPとイギリスGPのみである。

初開催の1921年はブレシア(モンティキアーリ・サーキット(イタリア語版))、1937年リヴォルノ(モンテネーロ・サーキット(イタリア語版))、1947年ミラノ(ポルテッロ(イタリア語版))、1948年トリノ(ヴァレンティーノ公園(イタリア語版))、1980年にはイモラで開催され、途中1929年?1930年1939年?1946年には中断されているが、それ以外は毎年モンツァ・サーキットで開催されている。

1981年から2006年まで同国内のイモラサーキットでもグランプリが開催されていたが、こちらはサンマリノ共和国から名称を拝借する形で、サンマリノGPとして行われていた。当時のグランプリでは「1ヶ国につき1年に1開催」が原則とされていたためこのような措置が取られていた。

現行のカレンダーではヨーロッパラウンドの最終戦にあたる。シーズン終盤の秋口に行われることから、次のシーズンに関しての重大発表が行われることが多い。

1987年 - ホンダマクラーレンに対し、翌年よりエンジン供給。アイルトン・セナのマクラーレン入り。

1989年 - アラン・プロスト、翌シーズンのフェラーリ加入。

1992年 - ホンダ、F1撤退(第2期の終了)。ナイジェル・マンセル、翌シーズンのウイリアムズ離脱。

2006年 - ミハエル・シューマッハ、1度目の引退。

2016年はオランダのビール醸造会社ハイネケンがタイトルスポンサーとなった[1]

バーニー・エクレストンとイタリア自動車クラブの交渉が長引き、2017年はイモラへの移転やイタリアGPの消滅も噂されていたが、2019年までモンツァで開催されることになった[2]。しかし、イタリアGP開催への政府支援に関してイモラが不服を申し立てたため正式契約が遅れていたが、訴えを取り下げたためモンツァでの開催が確実となり[3]、11月28日に2019年までの開催が正式決定した[4]。しかし、観客動員の減少傾向は変わらず、将来の開催が疑問視されていたが[5]2024年までの継続開催が決まった[6]2020年新型コロナウイルス感染症がイタリア国内で猛威を振るったことにより開催が危ぶまれたが[7]無観客で開催することが決まり、併せて開催契約を2025年まで延長した[8]
特筆すべきレース

1956年イタリアGPは最終戦開催となった。優勝したのはマセラティ・250Fのスターリング・モスだが、自分の車を壊したあとピーター・コリンズから車を譲り受けたランチア・フェラーリ・D50ファン・マヌエル・ファンジオが2位に入り、ファンジオが3年連続の選手権王者を手中にしている。当時はレース中にマシンの乗り換えが許されており、1台の車に複数のドライバーが交代で乗って入賞しポイントを獲得した場合、獲得ポイントを人数で割って配分されるルールであった。この時点で唯一ファンジオ以外に王者の可能性を残すコリンズが、すでに車を降りているファンジオに対し交代を申し出たことで実現した。当時は3台以上、ときには5台以上の車を出走させるコンストラクターが1人のエースを勝たせるというスタイルが一般的であったため、現在のチームオーダー批判のような議論は起きていない。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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