イタリアの降伏
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休戦協定成立を記念し、シチリア島のカッシビレにてアメリカ軍兵士が作った「平和の石」。(1943年9月)

第二次世界大戦におけるイタリアの降伏(イタリアのこうふく)では、1943年9月8日に、イタリア王国連合国と締結していた休戦協定を発表して枢軸国から離脱し、降伏に至った経緯を記述する。

イタリア王国の動きを事前に察知していたドイツ軍は、この発表の直後にイタリア半島およびその他のイタリア勢力圏を速やかに制圧。イタリア本土では南部から侵攻する連合国軍と、北部のドイツ軍、およびドイツの傀儡のイタリア社会共和国との、イタリア戦線が構築された。休戦についてイタリア語では調印が行われたシチリア島シラクサ近郊の地名から「Armistizio di Cassibile(カッシビレの休戦)」、もしくは「Armistizio dell'8 Settembre(9月8日の休戦、単に9月8日とも)」と記載される。
背景
連合国の無条件降伏方針

1943年1月24日に、イギリスアメリカ合衆国両国の首脳は、カサブランカ会談後の共同記者会見において「枢軸国に対して一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする」という原則を表明した[1]。この案は軍や国務省を除くアメリカ政府内での検討によるものであり、第一次世界大戦の終結が降伏という形を取らなかったためにドイツ人は敗戦を受け止めず今次の大戦に至ったという考えと、ソビエト連邦に「対独戦を最後まで戦い抜く」というメッセージを伝える目的によるものであった[2]。また、当時日本軍に対して劣勢であったため、対日講和が噂されていた中華民国に対するけん制という意味もあった。

この考えにはフランクリン・ルーズベルト大統領も強く同意していた[3]。当初イギリスのウィンストン・チャーチル首相はイタリアの枢軸国側からの離脱をさそうため、一律での無条件降伏路線には反対であった。しかしイギリスの戦時内閣はイタリアの例外化に否定的であり、結局イタリアも含めた形で発表された[4]。当時アメリカ側はイギリスが対日戦において単独講和する可能性があるという疑念を持っており、当初無条件降伏路線自体に賛成ではなかったイギリスがルーズベルト提案に賛成したのは、その疑念を晴らすためという面が強かった[5]
ムッソリーニ排除の動きシチリア島へ上陸するイギリス軍(1943年7月10日)

1943年春、北アフリカ戦線のイタリア軍の敗北が明らかとなり、ファシズム体制に対する批判が国内で高まり始めた。イタリアの独裁者である首相ベニート・ムッソリーニは、ファシスト体制に対してより国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に忠誠であると思われる人物を、イタリア政府内から何人か排除した。ムッソリーニによるこれらの人事は、ムッソリーニ政権の失策を批判してきた王への敵対的な行為と言われた。おそらく、この決定の後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニの排除と講和に向けた対抗手段を検討し始めた。またムッソリーニ自身も病体であり、かつてほどの指導力を示せなくなっていた。

王は計画を実行するために、上院議長ディーノ・グランディに参加を依頼した。グランディはファシストの組織における主要なメンバーの一人であり、若い時には、ファシスト党の指導者としてムッソリーニに代わることのできる人物であると考えられていた。王は、グランディのファシズムに関する考えが、急に変わる可能性があると言う疑いからも、依頼を行った。ピエトロ・バドリオ自身も含むたくさんの交渉役の人間は、彼に独裁者ムッソリーニの後継者となる漠然とした可能性を示した。

バドリオの指名は、戦争において、イタリアがドイツと同盟しているという立場を変更はしなかった。しかし、サヴォイア家による平和を求める動きも生じていた。実際、複数の外交チャネルが連合国との講和を求め、模索されていた。

しかしこの情勢は、5月7日にはドイツに察知され、総統アドルフ・ヒトラーはこの動きに対応するために、5月9日エルヴィン・ロンメル元帥をイタリアに派遣する計画を立てた[6]。ドイツは連合国軍がサルディーニャ島に上陸するという情報を入手して警戒に当たっていたが、これは連合国軍の欺瞞作戦(ミンスミート作戦)であり、7月10日に連合国軍はシチリア島に上陸した(ハスキー作戦)。シチリア島の村を解放したイギリス軍のシャーマン戦車(1943年8月)シチリア島上陸後に捕虜となったイタリア軍兵士

しかし、イタリア軍の対応は緩慢であり[7]ドイツ国防軍最高司令部(OKW)は西方軍集団にイタリアの寝返りを警戒する指令を出した[8]。ヒトラーはイタリア情勢に対応するためとして、東部戦線からの師団引き抜きとクルスクの戦いにおける攻勢(ツィタデレ作戦)の中止を指令した[9]。(この措置によって東部におけるドイツの攻勢は不可能となり、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は「東部戦線の主導権はソ連側にうつった。我々としては、今後は、我が部隊がソ連軍に突破され包囲されて、スターリングラードの再現にならぬよう防戦するだけである」と嘆いた[10])。

7月14日にはピエトロ・バドリオ元帥と、イヴァノエ・ボノーミ元首相がムッソリーニ更迭後の組閣名簿を作成した。またヴィットーリオ・アンブロジオ参謀総長がムッソリーニの命令と偽り、首都警備のため編成された師団をローマから移動させるよう試みた[11]。また複数のファシスト党幹部が民心の離反を感じとり、ムッソリーニを裏切るかどうかの決断を迫られていた。

7月15日、バドリオ元帥が閣僚名簿を首相に奉呈し、クーデターの決行を国王に訴えたが、情報の流出をおそれた国王は留保した。国王の懸念通り、この会見はたちまちドイツ側に漏洩し、ヒトラーは大使と国王の義弟にあたるヘッセン公フィリップ・フォン・ヘッセンを召還して情報収集に当たった[12]。情勢の切迫を知ったヒトラーは自らイタリア訪問を行う旨をイタリアに通告し、7月19日にトレビゾ空港でムッソリーニと会見した。当初ヒトラーはムッソリーニに国王を排除させ、より強力な独裁権力を確立させるつもりであったが、ムッソリーニが予想以上に衰弱していたため会見でそのことにはふれなかった[13]。一方でアンブロージョ参謀総長はムッソリーニにドイツと手を切ることを進言したが、ムッソリーニは応諾しなかった[14]
ムッソリーニ解任「グランディ決議」も参照

ヒトラーとの会談を終えた直後、ムッソリーニはファシズム体制指導者を激励するため、久しく開会されていなかったファシズム大評議会(Gran Consiglio del Fascismo)を7月24日に開催するよう指示した。アンブロージョ参謀総長は国王に決断を迫り、参謀総長に国王は次の定例謁見日(7月22日)までに決断し、その次の謁見日(7月26日)の後にムッソリーニを逮捕すると告げた[15]


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