イタリアの軍事史
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「イタリア」の範囲・定義は時代によって変遷している。画像はローマ時代における「イタリア」の領域(赤色は原義的な意味での領域、濃赤色は3世紀、橙色は紀元前81年、黄色は紀元前23年、濃黄色は西暦292年)

イタリアの軍事史(イタリアの ぐんじし)では、イタリア(大陸部・半島部・離島部を含む)における軍事上の歴史を、紀元前509年のタルクイニウス・スペルブス追放後(ローマ共和国成立)から現在のイタリア共和国に至るまでの範囲において記述する。
古代ローマ
共和制期鉄器時代のイタリア半島における紀元前6世紀の言語分布詳細は「古代ローマの軍事史」を参照

共和政ローマ軍(紀元前500年頃)は古代ギリシアに影響される他の都市国家と同じく、市民兵からなる重装歩兵を中核とした。9,000名程度であった初期の市民兵は資産階級に応じて5つの兵種(全てが重装備であった訳ではなく、軽装の兵種もあった)に振り分けられ、この階級区分は平時における政治においても民衆の集会において活用された(ケントゥリア民会)。初期のローマ軍は一貫してファランクスのような防御的な戦いを基本とした[1]

しかし次第にローマ軍は独自の戦術を模索し始め、紀元前3世紀までにはマニプルスと呼ばれる120名(場合によっては60名)からなる小規模な分隊制度を導入、ファランクス戦術を棄却した。またレギオ(軍団)という軍単位も、30個のマニプルス(3個の隊列に纏められた)と補助兵から編成される4000名から5000名規模の部隊となった。階級による兵種の違いは維持され、エクイテス(騎兵団)・プリンキペス(重装槍兵)・トリアリィ(重装剣兵)・ハスタティ(軽装兵)・ヴィテッリス(散兵)という分類に再編された。新しい共和政ローマ軍は攻撃的な戦術を元に、周辺国に向けて盛んに戦いを仕向けるようになる[2]

共和制初期、常備戦力として4000名から5000名規模の軍団は3600名から4800名の重装歩兵、数百の軽装兵と騎兵によって編成されるのが望ましいとされた[3]。時に軍団は戦死、負傷、事故、病気、脱走、徴兵の不首尾など様々な要因から兵力を損ない、兵員を揃えられなくなる場合が見られた。後に内戦でグナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルと相対した戦いでは、カエサル軍はポンペイウス軍に比べてガリア遠征によって戦力を消耗していた。こうした状況下では属州民から召集したアウクシリアの存在が急ごしらえの戦力として重要となった[4]。またこれだけに留まらず、同化が進んでいたとはいえ、未だ属州であったガリア・キサルピナで新しい軍団を編成している[5]

この時点では未だローマ軍の兵士は市民兵であり、職業軍人ではなかった[6]。彼らは自発的に軍に加わり、自弁で装備(エクイテスならば当然、馬も必要である)を揃えねばならなかった。ウィリアム・ハリスは紀元前200年頃まで農民階級がこうした動員の主軸を担い、死ななければ6度から7度にわたって軍に召集されただろうと推測している。反対に都市部の富裕層は奴隷や解放奴隷と同じく、余程の事情がない限りは動員の対象外であったと見られる[7]

状況を大きく変化させたのは、ラティフンディウムによる大規模農業でこうした農民達が没落を強いられた事によるものであった。紀元前107年、ガイウス・マリウスは抜本的な軍制改革を成功させ、その一環として召集を市民兵制から装備を配給しての自由志願制へと改革された。改革以降も兵士の多数は人口の主流である農民であったが、新たに没落した農民などの失業者も軍に加われるようになった。職業軍人としての性質が強まった事で、兵役期間に縛られない長期の遠征が可能となった[8]。職業軍人としての給与は紀元前3世紀頃から始まった「恩賞金制度」が実質的に機能した他、戦争の勝利で得た戦利品(金や貨幣など)の分配があり、更に退職金制度もマリウスによって国家からの領地分配が定められた[9]。また同盟軍からの援軍や、属州地での傭兵雇用もアウクシリア(補助軍)と呼ばれる制度へ確立され、主に軽歩兵や騎兵などを担当した。

マリウスの甥であるカエサルと、帝政の創始者であるアウグストゥスの相次ぐ恩給金増額もあって、帝政期には完全に市民兵制度は消失したと考えられている。今や軍団兵は1年につき900セステルティウス、退職金も貨幣で12000セステルティウスを約束されるまでになっていた[10]重装歩兵隊
帝政期

帝政を確立したアウグストゥスは既存の軍団を一旦解散させて大規模な再編成に着手し、最終的に帝国全土に28個の軍団が編成された[11]。帝政前期(プリンキパトゥス)の間も軍組織の改革は行われた。アウクシリアは変わらずコホルス単位で運用されていたが、正規軍の側も軍団単位よりもコホルスで行動する事が多くなった。それぞれのコホルスは軍団(レギオ)と同じく、アウクシリアと協調することで単独の戦闘が可能であったし、必要であれば別のコホルスと合流する事で対処すればよかった。軍団単位での行動を絶対としていた時代に比べ、こうしたコホルス単位での行動は組織的な柔軟性を生み、長期間にわたってローマ軍が広大な国境線を守るのに寄与した[12]

ガッリエヌス(253年 - 268年)の時代に行われた軍制改革により、ローマ軍は後期帝政の時勢に合わせて大きな変化を迎える。それまでレギオやコホルスの歩兵による城壁・城砦での防戦を基本としていた国境防衛は、コミタテンセス(野戦軍)と呼ばれる騎兵中心の機動戦力に道を譲った。歩兵部隊は国境から離れた内地での予備戦力(リミタネイ)として待機し、国境が破られた後に都市を防衛する事を新たな任務とした。

コミタテンセスは騎兵部隊を中核に、それに随伴する歩兵部隊から編成された。兵員は一部隊につき1200名の歩兵と600名の騎兵と定められたが、多くの記録は歩兵800名と騎兵400名程度が精々であった。またコミタテンセスは本国民や属州民といった従来の層だけでなく、フォエラディとして知られる「蛮族の傭兵」も含められるようになっていた。西暦400年までにはフォエラディはローマ軍における制度として完全な定着を見て、軍備として備えられた。更には蛮族の同盟国からの援軍にも依存するようになり、こうした部隊はローマ軍の将軍に率いられる一方、分隊レベルでは蛮族の指揮官が迎えられていた[13]

指揮権という面でも、ローマは王政から共和制・帝政まで多様な変化を続けた。王政の下で軍はローマ王によって導かれ、共和制初期においては任期制の執政官2名が交代で指揮を執っていた。後期共和制では元老院議員の主流層がクァエストル(財務官)として軍指揮官の代理を務め、それからプラエトル(法務官)として正規の軍指揮官を務めた。また広大化した領土の内、属州に関しては総督が軍指揮官を勤める事も多かった[14]。帝政確立の為に軍を恒久的に指揮下に置く事を望んだアウグストゥスの下で、皇帝は軍団指揮官の長として彼らに服従を強きつつ、自らが選抜したレガトゥス(幕僚)を元老院から送り込む事を通じて統制化に置こうとした。幕僚達は属州で総督の統治を補佐し、その上で自らの行政区に配置された駐屯軍に対して影響力を行使した[15]。ディオクレティアヌスによる治世の前後からこうした慣習は棄却された。幕僚達は軍に対する干渉を禁じられ、複数の行政区に配置された部隊はドゥクスという地方司令官職に委ねられた。ドゥクスにはもはや元老院の貴族達と関係なく、軍の将軍達が実績に応じて任命された。ドゥクスに就任した者はその権限を用いてしばしば帝位を簒奪した為、帝政末期のローマ(特に西ローマ帝国)における混乱に拍車をかけた[16]
海軍

ローマ軍は陸軍という印象が強いが、海軍もまた重要な存在として軍を構成していた。紀元前3世紀中頃、二人官の一方である海軍官は主に海賊行為を目的に、20台の船からなる海軍を指揮していた。こうした小規模な海軍を保有するという路線は前278年に一旦断念され、同盟軍による提供に頼る事となった。しかし第一次ポエニ戦争はローマが地中海に強大な海軍を保有する必要性を認識させ、東方の同盟国からの支援を受けながら海軍の養成が進められた。ヘレニズム式の海軍技術に対する信頼は共和制末期まで続き、帝政期により小型の船に取り替えられるまで、ポエニ戦争以来の大型船舶が活用されていた。一般的な櫂船と比較して、ヘレニズム式の船舶は未熟な水兵達でも運用が容易であったし、操作性の悪さは兵士を船一つにつき40名ほどを搭載して白兵戦に持ち込む事で解決された。船長は陸軍での百人隊長に相当する地位を与えられたが、多くが属州民から編成されたという点で大きく違っていた。海軍が非ローマ的であったという点は、平和時において容易に規模の縮小を可能にする為でもあった[17]

帝政後期の350年頃には、ローマ海軍が輸送や補給任務を主な目的として軍船と輸送船で編成されていた事が分かっている。軍船はガレー船に分類されるもので、アレキサンドリアラヴェンナを中心に地中海沿岸の幾つかが根拠地として使用されていた。また川舟はこの時代にはリミタネイに加えられておりライン川ドナウ川に沿った防備を固めるのに活用された。著名な陸軍の将軍が艦隊を指揮したという事実は、海軍が独立した指揮権を持たなかった事を示唆している。ちなみに幕僚は海軍の指揮権については干渉を許されていたが、どれほどの範囲であったかは不明である[18]
中世

中世時代の間、ローマを中心とした支配が崩れた後のイタリア地域では近世のイタリア戦争まで群雄割拠の時代が続いた。オドアケルを頭領としたヘルール族の軍勢がロムルス・アウグストゥルスを退位させたが暗殺され、次いでテオドリック率いる東ゴート王国軍が全土を支配した。


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