イタケー
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イタキ島
Ιθ?κη
イタキ島南部のヴァシー.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}イタキ島 イタキ島の位置ギリシャの地図を表示イタキ島イタキ島 (ギリシャ南部)ギリシャ南部の地図を表示
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度22分 東経20度43分 / 北緯38.367度 東経20.717度 / 38.367; 20.717
諸島イオニア諸島
面積26 km2
行政
ギリシャ
地方イオニア諸島
県イタキ県
中心地イタキ
統計
人口3,084人 ( ⇒2001現在)
人口密度119 /km2

イタキ島(イタキとう、現代ギリシャ語: Ιθ?κη / Ithaki)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的なイオニア諸島に属する。イタカ島(英語: Ithaca or Ithaka)、イタケ島 もしくは イタケー島(古代ギリシア語: ?θ?κη / Ithak?)とも呼ばれる。

ホメーロスオデュッセイア』では英雄オデュッセウスの故郷として「イタケー島」 (Homer's Ithaca) が登場するが、現在のイタキ島と同一であるかどうかには諸説ある。
名称

イタキという名前の起源については、以下のようにさまざまな説がある。

イタコス(Ithacos)
ギリシア神話の英雄。

ギリシャ語のithy。「陽気な」という意味。

ギリシャ語のithys。「まっすぐな」という意味。(もしくは隠喩。just or true。en:A Greek-English Lexicon)

フェニキア語のutica。「植民地」の意味。

イタキという名前は古代からずっと変わらないが、いろいろな時代の文献で、別の名前で呼ばれている。

Nerikii(紀元前7世紀

Val di Compare(最高の人間の谷)、Piccola Cephallonia(小ケファロニア)、Anticephallonia(反ケファロニア) - ヴェネツィア共和国による統治が始まるまでの中世

Ithaki nisos、Thrakoniso、Thakou、Thiakou - 東ローマ帝国統治時代。

Fiaki - オスマン帝国(トルコ)統治時代。

Teaki - ヴェネツィア統治時代。

Thiaki - ヴェネツィア統治時代前、水夫たちがそう呼んだ。住民が使っていた名前の名残り。

地理イタキ島の北部

島の西側にある海峡はイタキ海峡(Στεν? Ιθ?κη?)と呼ばれている。最西端のExogi岬など岬がある。北西にAfales湾、北にFrikes湾とKioni湾、南にOrmos湾とSarakiniko湾がある。最も高い山はNirito山で標高806 m、続いてMerovigli山の標高669 m。

隔離島(または救世主島)が港にある。救世主教会と古い刑務所跡もある[1]
歴史

イタキ島に最初に人が住み着いたのは新石器時代後期(紀元前4000年 - 紀元前3000年)である。住民たちの出自はわかっていないが、建物、壁、道路の跡から、古代ギリシア時代初期(紀元前3000年 - 紀元前2000年)まで、生活が続けられていたことはわかっている。前=ミケーネ文明時代(紀元前2000年 - 紀元前1500年)には、住民の何人かが島の南部に移住した。発掘された建物や壁は当時の生活様式が原始的なままだったことを示している。
ミケーネ文明時代

ミケーネ文明の時代(紀元前1500年?紀元前1100年)、イタキ島の古代文明は最盛期を迎えた。イタキ島は周囲の島々を従えたケファロニア国の首都となり、当時の最も強力な国の1つと呼ばれた。イタキ人は地中海の遙か遠くまで勇敢に遠征する、すぐれた航海者・冒険者とみなされた。

ホメロスの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は青銅器時代のイタキにいくらかの光を照らすかも知れない。この2つの詩は一般に紀元前8世紀から紀元前6世紀の間に作られたと言われるが、ベースになっているのは古い神話や詩的な伝承である。英雄オデュッセウスの描写、およびオデュッセウスがイタキや周囲の島々、本土を統治していたことは、当時の政治地理学の記憶を残していたのかも知れない。

しかし、ミケーネ文明が終わって以降、イタキの影響力は衰退し、近隣の大きな島の支配下に入った。
ヘレニズム時代

古代ギリシアの全盛期(紀元前800年 - 紀元前180年)、コリントス人はこの小さく不毛の島を放置した。島の北部と南部で自立した組織だった生活が続けられた。南部では、アエトス地域にAlalcomenaeという町が作られた。歴史的に重要な価値を持つ、この時代の遺物がたくさん発掘されていて、その中にはイタキの名やオデュッセウスの絵を刻んだコインがあり、島が自治されていたことを示している。

紀元前2世紀にイタキ島はローマ帝国に占領され、その後、東ローマ帝国の一部となった。12世紀から13世紀にかけては、ノルマン人がイタキ島を統治した。

時代や征服者たち、周囲の状況で、島の人口は増減した。ヴェネツィア共和国の時代まではっきりした記録はないものの、ミケーネ文明の時代から東ローマ帝国の時代まで、住民の数は数千人で、その大部分は北部に住んでいたと信じられている。中世の間、人口が減少したのは、海賊の侵略の連続によるもので、そのせいで住民たちは山間部に居住区を作って住むことを余儀なくされた。
オスマン帝国時代

1479年オスマン帝国軍がイタキ島にやってきた。多くの住民はトルコ人を恐れて、島から脱出した。残った人々は海賊を避けて山に隠れ住む人たちで、海賊はイタキ島の湾と、ケファロニア島との間の海峡を支配していた。それからの5年間、トルコ人とヴェネツィア人は島々の所有について外交交渉を重ね、最終的にトルコが所有権を得た(1484年?1499年)。しかしヴェネツィアはイオニア諸島に未練があり、艦隊を組織し、力を増したところで、1499年、トルコの戦争を開始し、ヴェネツィア・スペイン連合艦隊がイタキ島やその他の島々を包囲した。戦争はヴェネツィア・スペイン連合艦隊の圧勝に終わり、1500年、ヴェネツィアはイオニア諸島を支配した。1503年に結ばれた条約では、イタキ、ケファロニア、ザキントス島(en:Zakynthos)はヴェネツィアの、レフカダ島(en:Lefkada)はトルコのものとなった。
フランス時代

フランス革命の数年後、1797年カンポ・フォルミオ条約を受けて、イオニア地域はフランス第一共和政の支配下に入った。イタキ、ケファロニア、レフカダ島およびギリシャ本土の一部はフランス領イタキ県となり、イタキ島はその名目上の県庁所在地となった(ただし知事公舎はケファロニアのアルゴストリに置かれた)。

住民は行政・司法の管理に気をつけるフランス人を歓迎したが、その後、課せられた重税が住民の不満を引き起こした。この期間は短かったが、新しい制度・社会構造の概念は島の住民に大きな影響を与えた。1798年の終わり、島の所有権は当時同盟関係にあったロシアとトルコに譲渡された。1800年、イオニア諸島はイオニア七島連邦国となり、ケルキラ島(コルフ島。en:Corfu)のケルキラがその首都になった。政府の形態は、イタキ島の1人を含む、14人のメンバーから成る議会民主制だった。

黒海の港まで貨物を運ぶ許可を得て、イタキ船団は繁盛した。1807年、トルコの同意を受けて、イオニア諸島は再びフランスの統治下に入った。フランスはただちにイギリス艦隊に対抗する準備を始め、ヴァシー(Vathy)に要塞を築いた。1809年、そのイギリスによってイタキ島は解放されたが、その要塞は、後にギリシャがトルコと戦う時に役に立ったと指摘されている。1815年パリ条約[2]でイタキ島は、イギリスの保護国であるイオニア諸島合衆国(en:United States of the Ionian Islands)の州となった。

1821年のギリシャ革命時、イタキ島の重要人物たちはフィリキ・エテリアに参加した。


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