イタオマチ??
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}本来の表記は「イタオマチ??」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。小玉貞良アイヌ絵に描かれたイタオマチ??。交易品としての毛皮や干し鮭が満載されている。これは絵としてデフォルメされた姿であり、実際の船体は人よりはるかに大型である北海道博物館に展示されたイタオマチ??(復元品)

イタオマチ??(アルファベット表記:ita-oma-cip)とは、アイヌが伝統的に建造し、航海に使用していた舟艇である[1]
概要

名称は、アイヌ語で「板のある船」を意味するイタ・オマ・チ??に由来する(イタは、日本語「板」からの借用語)。カツラセンノキなどの大木を刳り抜いた丸木舟に舷側板を取り付けることで大型化させた、縫合船の一種である[1]。アイヌは一般的に河川や湖沼など内水を航行する場合は大木を刳り抜いただけのチ??(丸木舟)を用いたが、他地域との交易などで海上を航行する際は、このイタオマチ??を用いた[1]。この技法による船は、日本ではアイヌ以外の地域からは知られていない[2]
造船法

以下は、江戸時代後期に秦檍麿らがアイヌ文化解説の目的で作成した絵巻物『蝦夷生計図説』を参考とした、イタオマチ??建造の手順である[3][4](「蝦夷生計図説」以外の資料を基にした記述は、脚注に記す)。
用材伐採

まず山中に分け入り、大木を探し求める。用材として適当な木を見出したら、樹下に祭壇を組み、カムイノミを行う。山の神、木の魂にイナウを捧げ、用材を得る許しを求めて祈る。その上で伐倒し、丸太をその場で適切な長さに切断した上で掘削作業に入る[1]
船底造り明治20年代の、アイヌの丸木舟。イタオマチ??は、丸木舟に舷側板を継ぎ足した構造である

イタオマチ??の構造の基本は、舟敷となる丸木舟である。一般的に「木の北側は日が当たらず成長が遅いので、年輪が詰まり、木質も硬くて重い」とされるため、伐倒以前の木が北向きだった部分が「船底」として設計される。作業に都合がいい位置に丸太を回転させた上で掘削作業に入る[5]。工具には伐採用ののほかに、モッタと呼ばれる小型のちょうな、あるいは研ぎあげたが用いられる[1]

船底部分の大まかな形が削り上がったら、山中からおろして村落に運び込み、刳り抜いた内部に横木を嵌め込むことで舷側部分が内側に倒れ込む失敗を防ぐ。同時にムシロなどを巻いて急激な乾燥を避けつつ寝かせ、狂いが収まるのを待つ。その上で船内に水を注いで「水平」を確かめ、完成時の外観や用途をイメージしつつ、丹念に削りなおして修正する。
舷側板張りロープで板材を綴り合せる(北海道博物館)

舟敷が完成したら、チ??ラ??イタ(舷側板。直訳すれば「舟の翼の板」)、や艫、舳部分に取り付ける板、さらに板を船体に取り付けるためのテシカ(縄)を用意する。この縄の素材にはニベシ(正確な発音はニペ?。シナノキの樹皮)、エゾヤマザクラの樹皮、クジラの髭の3種類があり、北海道太平洋沿岸ではシリキシナイ(現在の函館市恵山町)からビロウ(広尾町)までの地域はニベシや桜の樹皮が使われ、ビロウからクナシリ(国後島)までの地域ではクジラの髭が多く使われた。

まず基礎となる舟敷の舷にいくつもの孔を穿って縄を通し、その縄を舷側板にも穿っておいた孔に通すことで縫い付ける。新たな舷側板をあてがうことを繰り返し、船体の大まかな形を模る。板同士の隙間にはを詰め込んで漏水を防ぐ。船体が完成したところで、船首にイナウを捧げ、船魂を祀る儀礼・チ??サンケを執り行う[1]。こうして作られた船体の大きさは200石積みの和船と同じくらい(約20トン)となる。ウイマム松前藩主との謁見行事)に赴く際の船はウイマムチ??と呼ばれ、特別な儀装が成される。札幌市南区小金湯札幌市アイヌ文化交流センター(サッポロピ?カコタン)に展示されたイタオマチ??(復元品)の舳先部分。木製の鎖で儀装されている
推進具

イタオマチ??の推進具は、カンヂと呼ばれるオールである。柄の中途に孔が開けられ、その孔をイタオマチ??の舷に取り付けた突起「タカマヂ」にあてがうことで固定する。和語で「車櫂」と呼ばれるシステムである。船体の胴の間にはカヤニ(帆柱)を船の進行方向と直角になる位置で2本立て、その間にカヤ()を張る。帆の材料は、シキナ(ガマ)で編んだゴザが用いられる。
その他、付属品イタオマチ??の碇

イタオマチ??のカイタ()は、股木に石を取り付け重量を増したもので、和船の碇に似ている。さらに船内の漏水をくみ取るため、ワッカケ??(水を汲み取るもの。淦取りのこと)が備えられる。ワッカケ??の語は訛って和人にも伝わり、北海道弁では淦取りをヘゲと呼ぶ。
航行術

海上に出帆する折は天候に留意し、晴天が続くと判断した上で海神に旅路の安寧を祈り、船出する。遠洋には漕ぎ出さず、必ず陸沿いに進むことを心掛ける。また夜間の航行は危険ゆえ憚られ、必ず日が暮れる前に到達できる距離を一日の進捗距離とした。

順風の折は帆に風を受けて「順風満帆」の状態で航行するが、横風の際は帆柱を傾け帆を操作することで、進行方向を安定させる。櫂を用いて漕ぐ際は、胴の間に敷かれた板に乗組員が座り、一人で船体左右の櫂をそれぞれ操って推進させる。だがビロウからクナシリまでの海域では、横に2人並び、一人が右側の櫂を、もう一人が左側の櫂を操ることで推進させる。この海域は海流が激しいため、一人ではとても左右の櫂を操れないためであるという[4]
歴史大阪府大阪市平野区長原古墳群から出土した舟型埴輪。大阪歴史博物館所蔵

アイヌは近代にいたるまで文字の使用を受け入れなかったため、それ以前のアイヌ史考古学的な見地、あるいは和人はじめ他民族による文字資料からの考察が必要となる。イタオマチ??の起源も同様である。

日本本土においては、弥生時代より丸木舟に舷側板を取り付けて大型化した船が建造され始めたとされ、広島県福山市の御領遺跡からは、このタイプの船を描いたと思える土器片(弥生時代後期)が出土している[6]古墳時代古墳からは人物や動物、建造物など様々な事象を模して造られた埴輪が出土しているが、その中には舟を模した「舟型埴輪」があり、丸木舟に舷側板を取り付けた構造が表現されている。この「丸木舟に舷側板を足して容積を増す」造船法こそが和船の構造の基本であり、後の千石船(弁財船)も、航(かわら)と呼ばれる分厚い一枚板を舟底に据え、板を継ぎ足して全体を模る構造である[7]

一方、アイヌ文化圏においては、北海道日本海沿岸、余市町フゴッペ洞窟で発見された続縄文文化期の洞窟壁画に、イタオマチ??を模したと思しき線画が描かれている。なお考古学者・瀬川拓郎の学説によれば、フゴッペ洞窟の壁画は、日本海を航行して古代の北海道に至り、その地で客死した日本本土の「古墳文化人」に手向けられた「古墳壁画」であるという[8]。それが事実なら、イタオマチ??の製法は日本本土から伝来したとも考えられる。

時代が下って8,9世紀頃、続縄文文化は「擦った」(こすった)ような模様の土器を使用する「擦文文化」へと進化する。擦文文化の担い手(アイヌの祖先)は干し鮭やワシの尾羽、毛皮などを商品として日本本土との交易活動に勤しみ、鉄器やコメ、漆器などを移入した[9]


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