イズミル
?zmir
街の風景
位置
イズミルとイズミル県の位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}イズミルイズミル (イズミル県)イズミル県の地図を表示イズミルイズミル (エーゲ海)エーゲ海の地図を表示イズミルイズミル (トルコ)トルコの地図を表示
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度26分 東経27度09分 / 北緯38.433度 東経27.150度 / 38.433; 27.150
イズミル(?zmir [?izmi?])は、エーゲ海に面するトルコ西部の都市。イズミールとも表記される。古くはズミュルナもしくはスミュルナ(古代ギリシア語: Σμ?ρνα, Σμ?ρνη [zmyr.na?, zmyr.n??]、ラテン語: Smyrna, Zmyrna、現代ギリシア語: Σμ?ρνη [?zmi?ni] ズミルニ)と呼ばれた。人口は約400万人(2012年時点)でイスタンブール、アンカラに次ぐトルコ第3の都市である。イズミル県の県都。2012年の行政区画改編により、イズミル県とイズミル大都市自治体の範囲は同一となっている[3]。 古来よりその美しさが「エーゲ海の真珠」と称えられる港町。付近にはエフェソス、ベルガマ(ペルガモン)などの古代遺跡もあり、多くの観光客を集める。 現代においては、イスタンブールに次ぐトルコ第2の規模の港湾施設を持つ。ヨーロッパや中東、アフリカとの輸出入に便利な上、イスタンブールより物価や不動産賃借料、人件費が安価なことから、やや内陸に位置して広い工業団地があるマニサを合わせて、日系など外資系を含めた製造業の集積が進んでいる。交通渋滞などが慢性化しているイスタンブールからオフィスや研究所を移す欧州系企業も多い。政府機関のイズミル開発庁が企業誘致を担当している[4]。 イスタンブールから居を移すトルコ国民も増えている。上記のような物価高や渋滞を避けるためだけでなく、イスラーム教保守派が台頭するイスタンブールから世俗派が転出し、イズミルの自由な雰囲気を求めている面もある。これによりイズミルでも過密化を懸念する声が出ている[5]。 軍事面では、イズミルには北大西洋条約機構 (NATO) のイズミル連合航空部隊司令部が置かれている。 スュペル・リグのギョズテペSKが本拠地を置いている。 ヘロドトスによれば、紀元前1000年頃にアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、文化的・商業的中心地として大きく発展した。イオニア同盟の主要な都市の一つとなる。ホメロスが暮らしていたのもここであったと言われる。リュディアの攻撃(紀元前600年ごろ)によって破壊された。その後、リュディアやアケメネス朝、アレクサンドロス3世(大王)によって支配された。紀元前1世紀よりローマ帝国、4世紀以降は東ローマ帝国の支配下で繁栄を謳歌する。 1076年、スミュルナは古代ギリシア都市のクラゾメナイやフォチャや多数のエーゲ海の島々とともに、セルジューク朝の指揮官チャカ・ベイ
地理・経済・社会
歴史古代ギリシア時代のアゴラ
14世紀半ばからはオスマン帝国領に浮かぶ飛地となった。1402年にティムール朝に占領された後、1415年にオスマン帝国に占領される。オスマン帝国は異教徒や異民族に寛容であり、17世紀から19世紀にかけて様々な出自の商人たちが集まり、国際商業都市として栄えた。とりわけアルメニア商人はイランの絹をヨーロッパの商人に供給して、利益をあげた。1865年のイズミル
19世紀になると、オスマン帝国の欧米に対する経済的従属が深まった。港湾部がイギリス資本によって整備され、1866年にはイズミルからカサバ、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道が、同様にイギリス資本に支えられ開通した。これによってイズミルは、列強の工業製品を受け入れつつ、農作物を国際市場へと供給する拠点となった。列強による鉄道敷設はさらに進められ、1888年にイズミルとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権をドイツが獲得し、1893年に開通させた。
第一次世界大戦においてオスマン帝国が協商国側に降伏すると、1919年5月15日ギリシア軍はアナトリアに上陸し、イズミルを含む一帯を占領した。その後、1920年8月のセーヴル条約で、ギリシアによるイズミル地方の領有が期限つきで認められたが、1922年9月にはムスタファ・ケマル・アタテュルクの率いたトルコ軍が奪還。その前後に起こった火災でイズミルは全焼した。1923年7月のローザンヌ条約によって、トルコの主権が回復された(イズミル上陸、イズミル占領)。