イスラム革命防衛隊
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イスラム革命防衛隊
???? ???????? ?????? ??????

上:革命防衛隊の記章
下:革命防衛隊の旗
創設1979年5月5日
所属政体 イラン
兵種/任務/特性陸軍
空軍
海軍
ゴドス軍特殊部隊
バスィージ民兵組織)
人員12万-12万5千人
所在地テヘラン
主な戦歴レバノン内戦イラン・イラク戦争対テロ戦争シリア内戦イラク内戦
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イスラム革命防衛隊(イスラムかくめいぼうえいたい、ペルシア語: ???? ???????? ?????? ??????‎, ラテン文字転写: Sepah-e Pasdaran-e Enghelab-e Islami)は、イラン軍隊組織の一つ。
概要

イラン・イスラム革命後、旧帝政への忠誠心が未だ残っていると革命政権側から疑念を抱かれた国軍(ペルシャ語:????、Artesh)への平衡力として、革命の指導者アーヤトッラー・ホメイニーの命令により、1979年4月22日に創設された[1]。革命防衛隊はその性格上、1989年までイラン国防省ではなく革命防衛隊省の統制下とされていた。同年、兵站能力の統合を図るために国防省が改編され[2]、新しい全軍最高司令部へと両部隊が統合された[3]が、その後も現在に至るまで、国軍・法秩序維持軍(警察)とは別に独自の陸海空軍、情報部、特殊部隊ゴドス軍、後述)、弾道ミサイル部隊等を有し、戦時には最大百万人単位で大量動員できる民兵部隊「バスィージ(ペルシャ語:????、Basij)」も管轄している。さらに多数の系列企業を持っている[4](建設・不動産や石油事業を営む複合企業ハタム・アルアンビアなど[5])。
名称

イランでは、政府機関を頭字語や略称ではなく1単語の通称(当該組織の機能を示すものが一般的)で呼ぶ慣習があるため、広く一般大衆も含めて、革命防衛隊をSepah (????)と呼ぶ。Sepahというのは、「兵士たち」を意味する古風な言い方で、現代ペルシア語では軍団規模の部隊を示すのにも用いられる。現代ペルシア語で国軍の方はArtesh (????)と呼ぶのが普通である。

Pasdaran (????????) というのは、Pasdar (??????)の複数形で、「守護者」といった意味である。Sepahの構成員はP?sd?rと呼ばれ、革命防衛隊の階級名もそれに因んだものとなっている。

「イスラム革命防衛隊」(Islamic Revolutionary Guard Corps)[6][7][8]という名称の他に、イランの政府やメディアその他の人々は、革命防衛隊を指して一般的にSep?h-e Pasdaran(守護者たちの軍団)と呼ぶが、Pasdaran-e Enghelab (???????? ??????) (革命の守護者たち) や、より単純に Pasdaran (????????) (守護者たち) と呼ぶこともよくある。イラン国民、特にディアスポラのイラン人の間では、「Pasdaran」という名称を使うのは通常、革命防衛隊への敬意を込めた言い方である。

多くの外国政府や、英語圏のマスメディアは Iranian Revolutionary Guards (IRG)や、より単純にRevolutionary Guardsという用語を使う傾向がある[9]。米国メディアでは、Iranian Revolutionary Guard Corps(イラン革命防衛隊)あるいはIslamic Revolutionary Guard Corps (IRGC)(イスラム革命防衛隊)が同じ意味の用語として使われている[10][11][12][13]。米国政府の標準は Islamic Revolutionary Guard Corps[14](イスラム革命防衛隊)である一方、国連はIranian Revolutionary Guard Corps[15](イラン革命防衛隊)と呼んでいる。イギリスでは「Iranian Revolutionary Guard(IRG)」と呼ばれる。日本では「革命防衛隊」または「パスダラン」と呼ばれており、イラン・イラク戦争に関する資料やイラン近辺の事態を扱ったフィクションに使われている。
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出典検索?: "イスラム革命防衛隊" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年5月)

1979年2月1日、ルーホッラー・ホメイニーテヘランに帰還、イラン革命が成就した。その後、革命のために働いた種々の準軍事組織を統合して新政府に忠誠を誓う単一の軍隊にまとめることと、革命以前皇帝に忠誠を誓っていた従来の国軍は革命に抵抗する可能性があると当初考えられたため、国軍の影響力と戦力に対抗できるものとして機能させることを目的として、ホメイニーが5月5日に発した制令により、バーザルガーン暫定政権の下で、革命防衛隊が設立された[16][17]

新政権の発足当初から、革命防衛隊は革命体制に忠実な軍隊として機能した。革命後制定されたイスラム共和国憲法は国軍に「イランの独立と領土保全の責任」を与える一方、革命防衛隊には「革命とその成果を守護する責任を与える」とした。

当初、革命防衛隊の任務は名前通り革命を防衛し、イスラムのシャリーアと道徳の日々の執行において支配者たるイスラム法学者[18]を援助することとされ、法学者に直属する組織として計画された。

革命防衛隊を設立した理由は、もう一つあった。そもそもイランにおける革命政権というものは、「『旧政権の堕落した部隊』を借りる」よりは、むしろ「独自の武力」を必要とするとされた。革命政権発足当初に設置された革命機関の一つとして、革命防衛隊は革命を合法的なものとすることを援助し、新政権の基盤となる武力を提供したとされた。更に、革命防衛隊の設立は、ホメイニー師が独自の武力組織を迅速に作り上げていることを大衆や国軍に知らしめる意義があった。12人の議員から成る革命会議は、3万人の隊員を指揮し、革命防衛隊総司令官には、アーヤトッラー・ラフティ、その参謀長には、ハーシェミー・ラフサンジャーニーとゴラームアリー・アフロウズが任命された。

こうして革命防衛隊は、政治面を担った復興改革運動(Crusade for Reconstruction)とともに、イランに「新しい秩序」をもたらした。この始まりから、革命防衛隊は次第に勢力を拡大していった。やがて、その役目柄、警察との管轄争いになっていく。また、戦場では国軍と戦果を争うまでにもなった。


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