イスラム・カリモフ
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「カリモフ」はこの項目へ転送されています。イスラム・カリモフの長女については「グリナラ・カリモヴァ」を、イスラム・カリモフの次女については「ローラ・カリモヴァ」をご覧ください。

イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ
Islom Abdug‘aniyevich Karimov
Ислом Абду?аниевич Каримов

2016年6月23日撮影
ウズベキスタン共和国
初代 大統領
任期1991年9月1日 – 2016年9月2日
副大統領シュクルッラ・ミルサイドフ(1991?1992)
首相アブドゥルハシム・ムタロフ(1992? 1995)
ウトキル・スルタノフ(1995?2003)
シャフカト・ミルジヨエフ(2003?2016)
ウズベク・ソビエト社会主義共和国
初代 大統領
任期1990年3月24日 – 1991年9月1日
首相シュクルッラ・ミルサイドフ
ウズベク・ソビエト社会主義共和国
第14代 ウズベキスタン共産党
中央委員会第一書記
任期1989年6月23日 – 1991年12月29日

出生1938年1月30日
ソビエト連邦
ウズベク・ソビエト社会主義共和国
サマルカンド
死去 (2016-09-02) 2016年9月2日(78歳没)
ウズベキスタン タシュケント
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ウズベキスタン共産党(1964?1991)

ウズベキスタン人民民主党(1991?2007)

ウズベキスタン自由民主党(2007?)

配偶者ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1964?1960年代)
タチヤーナ・カリモヴァ(英語版)(1967?2016)
子女グリナラ・カリモヴァ
ローラ・カリモヴァ
署名

イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ(ウズベク語: Islom Abdug‘aniyevich Karimov / Ислом Абду?аниевич Каримов、英語: Islam Abduganievich Karimov、1938年1月30日 ? 2016年9月2日)は、ソビエト連邦ウズベキスタンの政治家である。1964年ソビエト連邦共産党に入党。ウズベク・ソビエト社会主義共和国国家計画委員会第1副議長、財務相、副首相などを歴任し、1990年3月、新設された同共和国大統領に就任した。同年7月ソ連共産党政治局局員、中央委員となった。11月共和国首相(内閣議長)兼任。1991年11月ウズベキスタン人民民主党創設、党首となる。ウズベキスタン独立後の1991年12月、大統領直接選挙に当選し同国の初代大統領となった。以後2016年に死去するまで、25年間にわたって同国の大統領を務めた。

政敵や言論への弾圧、不正選挙、人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは独裁者として批判を受け、パレード誌(英語版)に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていた[1]。経済面では、カリモフ在任中のウズベキスタンは2004年以降7%以上のGDP成長率を記録しているが、これも子どもを含む強制労働によるものとする批判がある。
経歴
ソ連時代

1938年1月30日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国サマルカンドで生まれた[2]。1941年、サマルカンドの孤児院に送られ、1942年に家に連れ帰られたが1945年に孤児院に送られた[3]。少年時代については模範的な学生だったという説と荒くれものであったという説の2つが存在する[4]

1955年に高校を卒業。1960年に中央アジア工科大学(現・タシュケント国立工科大学(ウズベク語版、英語版))を卒業し、機械工学の学位を取得。1961年から1966年まで、航空機製造企業や水資源省で技術者として勤務した。

1967年にタシケント国民経済大学(ウズベク語版、英語版)タシュケント国民経済大学で経済学の修士号を取得した[3]世界経済フォーラム年次総会でのカリモフ(右から2人目、1992年)
政治家として

1964年、ソビエト連邦共産党下部組織ウズベキスタン共産党に入党。1966年から1983年にかけて、ゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した。

1983年、ウズベク共和国の財務大臣に就任。1986年からは副首相兼ゴスプラン議長を務めた。カシュカダリヤ州の共産党第一書記を経て、1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記に就任した。

1990年から1991年までソ連共産党中央委員会委員政治局員ソビエト連邦最高会議代議員を務めた[3]プーチンと会談するカリモフ(2001年)
ウズベキスタン大統領

1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の初代大統領に選出された[3]

1991年3月に行われた連邦制維持の賛否を問う国民投票(ロシア語版、英語版)に際してはソ連への連帯を呼びかけ、95%の投票率で70%以上が連邦制に賛成した[3]。この投票結果に基づく新連邦条約の調印を控えた8月19日、モスクワクーデターが発生。これは失敗に終わったが、結果的に新連邦条約は実現せずソ連の崩壊を招くこととなった。カリモフ自身は、ペレストロイカの行き詰まりとゴルバチョフ自身の指導力の無さを批判し、クーデターに対する支持を表明していた。

1991年8月31日に共和国独立宣言を行い、国名を「ウズベキスタン共和国」に変更した[5]。自身の率いるウズベキスタン共産党はウズベキスタン人民民主党に改称した。


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