イスマーイール1世
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この項目では、サファヴィー朝の君主について説明しています。ナスル朝の君主については「イスマーイール1世 (ナスル朝)」をご覧ください。

イスマーイール1世
??? ???????
サファヴィー朝
シャー
17世紀のヨーロッパで描かれた、イスマーイール1世の肖像画
在位1501年7月 - 1524年8月23日
戴冠式1502年11月7日

全名Abu'l-Mo?affar Ism?'?l ibn Shaykh ?aydar ibn Shaykh Junayd
出生1487年7月12日
白羊朝 アルダビール
死去 (1524-08-23) 1524年8月23日(37歳没)
イラン帝国 タブリーズ
埋葬アルダビール
配偶者タジルー・ハーヌムなど
子女タフマースブ1世など
家名サファヴィー家
王朝サファヴィー朝
父親シャイフ・ハイダル
母親アーラム・シャオ
ウズン・ハサンの娘)
宗教イスラム教シーア派十二イマーム派
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イスマーイール1世(ペルシア語: ??? ???????‎; アゼルバイジャン語: ?ah ?smay?l, 1487年7月17日 - 1524年5月23日)は、16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者(在位:1501年 - 1524年)。イスマーイール1世の治世から、現在のイラン・イスラム共和国と周辺地域(アゼルバイジャン共和国イラク共和国の一部)にシーア派の信仰が根付き始める[1]

即位後に、王(シャー)を地上における神の影と見なす古代ペルシアからの伝統にのっとり、「シャー・ハン・シャー(王の中の王)」の称号を名乗った[2]

また、イスマーイールはハターイー(Khat?'?、アラビア語: ?????‎、「罪人」の意)の筆名で多くの詩を作り、アゼルバイジャン語による文学の発展に大きく貢献した[3]
生涯
誕生

アルダビール[注 1]で、神秘主義教団の一つであるサファヴィー教団の教主シャイフ・ハイダル(英語版)と、白羊朝の君主ウズン・ハサンの娘アーラム・シャオ[注 2]の間に生まれる。

イスマーイールの祖父であるシャイフ・ジュナイド(英語版)が教主を務めていた時代、サファヴィー教団は世俗の勢力にかわって政治権力を獲得する志向を有するようになった[4]サファヴィー朝#サファヴィー朝の起源も参照)。15世紀アゼルバイジャンを支配していた白羊朝は、婚姻関係によってサファヴィー教団と同盟を結ぼうとし[5]、祖父ジュナイドとウズン・ハサンの妹[6]、イスマーイール1世の父ハイダルと母アーラム・シャオとの婚姻が成立した。
サファヴィー朝建国以前

しかし、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダル、兄シャイフ・アリーは白羊朝との戦いで落命した[5]1494年[7]にシャイフ・アリーが獄死した後に[8]、イスマーイールが教主の地位に就き、カスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏した[7]。12歳までの間、イスマーイールはギーラーン地方のラーヒージャーン(英語版)で現地の有力者の保護を受け[9]、白羊朝が政治的に安定を失った1499年にイスマーイールは潜伏地のラシュト(ギーラーン地方の中心都市)を出発した[10]アナトリア半島各地のキジルバシ(トルコ系遊牧民のサファヴィー教信徒)に決起を促し、集合地とされたエルズィンジャンには7,000人のキジルバシが集まり、彼らは「無謬の救世主」であるイスマーイールに無私の忠誠を誓った[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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