イスファハーン
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エスファハーン
?????? / E?fah?n


イマーム広場の建物
愛称 : 世界の半分(Nesf-e Jah?n)
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度39分5秒 東経51度40分45秒 / 北緯32.65139度 東経51.67917度 / 32.65139; 51.67917
行政
イラン
 エスファハーン州
 市エスファハーン
市長Morteza Saqaeian Nejad
地理
面積 
  市域279 km2
標高1,550 m
人口
人口(2006年現在)
  市域1,583,609人
その他
等時帯IRST (UTC+3:30)
夏時間UTC+4:30 (UTC+4:30)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.isfahan.ir/

エスファハーン(ペルシア語: ??????‎; E?fah?n [esfa?h??n] ( 音声ファイル)、: Isfahan) は、イラン都市エスファハーン州州都テヘランの南約340kmに位置する[1]日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される[2]

古くからの政治・文化・交通の拠点であり[3]16世紀末にサファヴィー朝首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分( Esfah?n nesf-e-jah?n ast 、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され[4][注 1]、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり[5]、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる[6]

町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク[注 2])などがある新市街のイマーム広場(王の広場[注 2])は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。

町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある[7]。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている[8]。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる[8]
語源

古代ペルシア語の"Aspad-hana(アスパダナ、大軍の集結地)が、町の名前の由来である[9]。「大軍の集結地」が示す通り、町の周辺の平原は軍隊の駐屯地や捕虜の収容所として使われていた[10]。古代ペルシア語の"Asp(馬)から派生した「馬を愛する者」「騎兵の補給基地」「厩舎」を語源とする説も存在する[11]

古代ローマプトレマイオスの『地理書』には、町はアスパダナ(Aspadana)の名前で記されている[1]サーサーン朝の末期に鋳造された貨幣には、アスパダナを意味するASPの3文字が刻まれていた[10]

エスファハーンの名前は、7世紀に町を征服したアラブ人によって定着した[9]
歴史
イスラーム以前

エスファハーンの歴史は紀元前のアケメネス朝期に遡ることができる[3]。一説には、紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源と言われる[12][13]

サーサーン朝の時代にはエスファハーンは軍隊の駐屯地とされており、町は「軍隊」の複数形であるセパーハーン(Sep?h?n)の名前で呼ばれていた[1]。サーサーン朝の王ヤズデギルド1世の治世に、ユダヤ人が町に移住させられる[8]

手工芸品の産地である町は、パルティア王国とサーサーン朝の時代に交易で発展した[10]

7世紀イスラム帝国の征服前に、すでに町の原型が形作られていた[14]ザーヤンデルード川の北を中心に町が形成され、東のジャイ、西のヤフーディーヤの2つの集落が形成された。ジャイは城壁に囲まれた軍事都市、ヤフーディーヤはユダヤ人居住区と異なる役割を有する双子都市であり、ゾロアスター教徒、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒が混住していた[15]。やがてジャイは廃れ、ヤフーディーヤが発展していく[1]

642年のニハーヴァンドの戦いの前後に町はアラブ人の支配下に入った[1]。サーサーン朝の時代に町に住んでいたゾロアスター教徒の多くはイスラームに改宗、あるいは東方に移住した[16]。しかし、イスラム教徒の支配下でも、残ったゾロアスター教徒、ユダヤ人、キリスト教徒は町の一角に居住していた[16]
第一の隆盛期金曜モスク

773年ごろに金曜モスク(ジャーメ・モスク)の基となった大モスクが建立され、町は大モスクとコフネ広場(旧広場)を中心に発展していく[17]

10世紀までにウマイヤ朝アッバース朝サッファール朝サーマーン朝がエスファハーンを支配した。931年ブワイフ朝の支配下に入り[3]939年にブワイフ朝の首都に定められた[16]。アラーウッダウラのもとで市壁が築かれ、おおよそ市壁に沿って町が発展した[14]。貿易路の交差点に位置する立地のため、多くの街道がエスファハーンと結ばれる[18]

11世紀にエスファハーンはガズナ朝、次いでセルジューク朝に領有される[3]。セルジューク朝のスルターンマリク・シャーは、エスファハーンを国の都に定めた。金曜モスクと隣接するコフネ広場を中心として、エスファハーンは最初の隆盛期を迎える[14]

金曜モスクは修復され、南北の大ドームと、中庭に面した4つのホール(イーワーン)が増築される[19]。また、モスクの近くにニザーミーヤ学院が建設された。セルジューク朝支配下のエスファハーンでは200人の両替商が営業を行い、50のキャラバンサライ(隊商宿)が建っていた[16]

セルジューク朝が分裂した後のエスファハーンは首都としての機能を失うが、地方の中心都市としての地位を保っていた[14]。多くの国がエスファハーンの領有を巡って争ったためにたびたび破壊に晒されたが、交通、商業、文化、農業の一拠点としての重要性は維持していた[12]
停滞期

11世紀末から12世紀初頭にかけての間、イスマーイール派がエスファハーンを占領した[10]1165年、エスファハーンでハナフィー学派シャーフィイー学派による8日間に及ぶ武力衝突が起こり、家屋や商店は破壊され、多くの死者を出した[20]

1194年イラク・セルジューク朝最後の君主トゥグリル3世ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・テキシュに敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。モンゴル帝国軍に敗れてインドへ逃亡したジャラールッディーン・メングベルディーがイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している[21]

1240年にイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に征服され[22]イルハン朝の支配下に入った。14世紀に、エスファハーンは学術と商業の拠点として復興する[19]。14世紀に旅行家イブン・バットゥータがエスファハーンを訪れたとき、町ではスンナ派シーア派の争いが起きていた[23]

14世紀半ばのイルハン朝崩壊後の混乱時代に、ヤズドを根拠地とする地方政権ムザッファル朝の傘下に入る[22][24]1387年にはティムールの、1414年にはシャー・ルフによって2度のティムール朝軍の破壊を受けている。1387年にエスファハーンの住民が町を占領したティムール軍に反抗したため、70,000人に達する市民が虐殺されたen:Siege of Isfahan (1387)という[25]
第二の隆盛期サファヴィー朝の王アッバース1世19世紀にPascal Costeによって描かれた王の広場エスファハーンのバーザール

16世紀初頭に建国されたサファヴィー朝の創始者イスマーイール1世は、コフネ広場の南にハール・ネヴェラーヤトと呼ばれるスーフィーの聖者の霊廟とアリー・モスクを建立した。16世紀を通して王朝が派遣した地方官や土着の有力者によって、多くの建設事業が行われた[12]1597年アッバース1世によって、サファヴィー朝の首都がガズヴィーンからエスファハーンへ遷都された[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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