イスパニョーラ島
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この項目では、ハイチドミニカ共和国が位置する島について説明しています。ガラパゴス諸島にある島については「エスパニョラ島」をご覧ください。
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イスパニョーラ島現地名: La Espanola, Ispayola
イスパニョーラ島地形図

地理
場所カリブ海
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯19度0分0秒 西経70度40分0秒 / 北緯19.00000度 西経70.66667度 / 19.00000; -70.66667座標: 北緯19度0分0秒 西経70度40分0秒 / 北緯19.00000度 西経70.66667度 / 19.00000; -70.66667
諸島大アンティル諸島
主要な島ゴナーブ島トルトゥーガ島、ヴァシュ島、サオナ島
面積順位23位
最高峰ピコ・ドゥアルテ
行政
ハイチ
首都ポルトープランス
ドミニカ共和国
首都サントドミンゴ
人口統計
人口22,278,000人[1](2020年時点)
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イスパニョーラ島(イスパニョーラとう、フランス語: Hispaniola、スペイン語: La Espanola、ハイチ語: Ispayola)は、カリブ海にある大アンティル諸島に属するである。西側3分の1をハイチ、東側3分の2をドミニカ共和国が統治している。東はモナ海峡、西はウィンドワード海峡およびジャマイカ海峡となっている。

島の面積は76,480km2と、世界の島の中では北海道島、樺太島に続いて23番目の大きさである。カリブ海の中ではキューバ島に次いで2番目に大きい。イスパニョーラ島はウィンドワード海峡を挟みキューバの80km南東に位置し、ジャマイカ海峡をはさんでジャマイカ島の北東に位置する。プエルトリコからはモナ海峡を挟んだ西にあり、バハマ諸島の南に当たる。

キューバ・イスパニョーラ・ジャマイカ・プエルトリコは大アンティル諸島を形成する。大アンティル諸島は、小アンティル諸島の火山島やサンゴ礁とは異なり、大陸性の陸塊である。

かつては西側のハイチのほうが人口も国力も東側の現ドミニカ共和国を上回っており、東側は何度もハイチにより侵攻・占領されていた。比較的安定したドミニカ共和国に比べ、ハイチは政情が不安定で世界最貧国の一つであり、農業の規模も小さく国土も森林がほとんど失われ荒廃している。
歴史コロンブス到来前のイスパニョーラ島の勢力分布。カシーケ(首長、cacique)に率いられたタイノ人の5つの部族集団がイスパニョーラ島を統治していた15世紀のスペイン人による地図詳細は「ハイチの歴史」および「ドミニカ共和国の歴史」を参照

クリストファー・コロンブス1492年12月5日、本島に到達してラ・ナビダッド(La Navidad)を建設。1493年の2回目の航海では南東部のオサマ川(スペイン語版、英語版)河口に新世界最初のスペイン植民地の居住地区であるラ・イサベラを建設した。この植民地の中心は、1496年に新世界最初の西洋人による町・ヌエバ・イサベラ(Nueva Isabela)となったが、まもなくハリケーンで破壊されたため川の対岸にサントドミンゴの町を築いた。

アラワク系の先住民タイノ人カシーケと呼ばれる首長に率いられて暮らしていた。この島をキスケヤ(Quisqueya、または Kiskeya、「すべての大地の母」の意味と推定されている)と呼んでいた。この名前はハイチ共和国とドミニカ共和国両方の地名に残っており、またドミニカ共和国の国歌は『キスケヤの勇敢な息子たち』(Quisqueyanos valientes)と呼ばれている。その他の先住民による島の呼び名にはアイティ(Ayiti、「高い山の土地」)やボヒオ(Bohio)などがあったが、アイティは、1804年のハイチ共和国独立の際に国名として利用された。ハイチは島中央の山脈の姿に由来し、もともと島全体の呼び名で西側のハイチ共和国側に限定されたものではなく、ドミニカ共和国のある東側もかつてはスペイン領ハイチと呼ばれていた。スペイン人はこの島を聖ドミニコにちなみサント・ドミンゴ島(Santo Domingo)と名づけた。ドミニカ共和国の名や島の西側に存在したフランス植民地(現在のハイチ共和国)サン=ドマング(Saint-Domingue)の名はこれに由来する。
フランスとスペインの支配フランス領サンドマングのポルトープランスの邸宅スペイン領サントドミンゴ市の地図

スペイン人による鉱山労働などでタイノ人らは酷使され、持ち込まれた疫病被害もあり25万と推定されるコロンブス以前の人口は激減し絶滅へと向かった。代わってアフリカからの黒人奴隷が大量に送りこまれた。当初のスペインの全島支配に対し、手薄な西側にフランス人などの海賊が侵入し、北西沖合の島トルトゥーガ島は海賊の巣窟と化した。しばしば貿易船や入植地を襲う海賊の脅威に、1606年にはスペイン人は入植者に対しサントドミンゴ周辺に集まって住むよう命令、空白地となった島の残りにはフランスやオランダ、イギリスなどの勢力が殺到した。1660年代以降フランスは島西部の領有を主張し入植地を築き、1697年ライスワイク条約で正式に島の西側3分の1はフランス領となった。

フランス領サン=ドマングは、北部カプ=フランセ(現カパイシャン)を中心に砂糖コーヒープランテーションが建設され、フランス植民地の中でも最も利益を生み出す植民地となったが、アフリカから連行され酷使される黒人奴隷の間には不満が高まっていた。
ハイチ革命とドミニカ独立戦争ハイチ革命

フランス革命に乗じて黒人や混血(ムラート)勢力が決起しハイチ革命が起こり、1804年には西半球初の黒人国家ハイチ帝国 (1804年-1806年)を誕生させ、プランテーションを解体させ小作農を多数生み出した。一方で独立後のハイチはフランスにより、放棄したプランテーションなどの賠償金を払うよう強要され財政や経済は混乱してしまった。

スペイン領サントドミンゴ(スペイン語版、英語版)は、フランス革命戦争でのスペインとフランスの講和(バーゼルの和約)により1795年にフランスに割譲され、以後サン=ドマングのハイチ革命の荒波をかぶり、ハイチ黒人軍侵入による奴隷制度撤廃とナポレオン軍侵入による奴隷復活、ハイチ共和国軍に対するフランス軍の駐留継続が続き、ナポレオン戦争後の1814年にスペイン支配が復活するまでにすっかり荒廃してしまった。


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