イスタンブール歴史地域
(トルコ)
アヤソフィア
英名Historic Areas of Istanbul
仏名Zones historiques d'Istanbul
面積678 ha
登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(3),(4)
登録年1985年
公式サイト世界遺産センター
イスタンブール歴史地域[1](イスタンブールれきしちいき、トルコ語: ?stanbul'un Tarihi Alanlar?)は、トルコ最大の都市イスタンブールの旧市街にある歴史的建造物群に設定されたユネスコの世界遺産リスト登録物件(文化遺産)。日本では「イスタンブール(の)歴史地区」[2]などとも表記される。 イスタンブール歴史地域は、4世紀以来東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリス(英語名コンスタンティノープル)が、15世紀からはオスマン帝国の帝都イスタンブール(別名コスタンティニエ)が位置した、現在のイスタンブールの旧市街地区に設定されている。 この町はアジア州のアナトリア半島とヨーロッパ州のバルカン半島を隔てるボスポラス海峡のヨーロッパ側にある半島に位置し、海峡を抜けて北に出れば黒海、南に抜ければエーゲ海に至る海上交通の要衝でもある。 紀元前7世紀頃、このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのはギリシャ人入植者たちで、彼らの建てたビュザンティオンは旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。古代ギリシアが古代ローマに組み込まれるとビュザンティオンもローマ都市となり、3世紀には城壁のすぐ側にヒッポドローム(競馬場)が建設された。 330年、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世はローマに代わる首都としてビュザンティオンを選び、コンスタンティノポリスと改名。従来の城壁の2km西にコンスタンティヌスの城壁が築かれ、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。 同じ世紀の末にはローマ帝国の東西分裂によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、ヴァレンス水道橋(378年完成)やハギア・ソフィア大聖堂(537年竣工)などの、現存する優れた建造物が次々に建設された。413年にはテオドシウスの城壁が完成、市域をコンスタンティヌスの城壁からさらに西に2km伸ばし、堅固な城壁と海によって囲まれ、壮麗な宮殿と数百にも及ぶ教会が立ち並ぶ大都市コンスタンティノポリスが完成する。その人口は東ローマ帝国の盛衰にともなって上下するが、大城壁の堅い守りによって、1204年の十字軍による攻略まで外敵による占領を受けることはなかった。 1453年のコンスタンティノポリス陥落によって東ローマ帝国が最終的に滅ぶと、新たな支配者であるオスマン帝国は、ハギア・ソフィア大聖堂やパントクラトール修道院付属教会、城壁近くのコーラ修道院などのキリスト教の教会をモスクに転用した。このとき、モザイクの壁画は漆喰に塗りこめられたので、かえって20世紀に漆喰がはがされるまで無事に保存されることになる。 また、古代ビュザンティオン市の跡地にトプカプ宮殿が造営され、16世紀にはビザンティン建築の精華を十分に吸収したムスリム(イスラム教徒)の建築家ミマール・スィナンによってスレイマニエ・モスクなど、すぐれたトルコ・イスラム建築が建てられた。17世紀にはハギア・ソフィア大聖堂あらためアヤソフィア・モスクと並ぶようにスルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)が建設されるなど、モスクのミナレットと大ドームが林立するイスタンブール歴史地域の美しい景観がはぐくまれていった。
概要