イジー・トルンカ
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イジー・トルンカ(Ji?i Trnka、1912年2月24日 - 1969年12月30日)は、チェコアニメーション監督人形作家、絵本作家である。チェコを代表する人形アニメ監督であり、チェコのアニメの牽引役を担った[1]。アニメーション制作以外に、絵本の挿絵などのイラストレーションも手掛けている。
目次

1 生涯

2 作風

3 評価

4 作品

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

生涯 イジー・トルンカの墓

1912年2月24日、プルゼニのペトゥロフラットでトルンカは生まれた。幼少期に、トルンカは祖母から人形の作り方を学んでいた[2]。小学生の時に近代人形劇の父と言われるヨゼフ・スクパに出会い、イラストレーションと人形劇に関心を抱くようになる[3]

成長したトルンカはプラハ美術工芸学校に進学し、グラフィックを学ぶ傍らでスクパの劇団で助手として働いて人形美術を学んだ[4]。1930年代のトルンカはプラハの下宿を転々としており、1936年/37年にヴァーツラフ広場のロココ劇場で人形劇に参加する[5]。1936年にトルンカは人形劇場「木の劇場」を設立するが不成功に終わり、数ヶ月で閉鎖する[6]。トルンカは新聞や雑誌に掲載する挿絵、ぬいぐるみ工場で使われる型紙の作成、布のデザイン、映画館の広告のデザインなどの仕事を請け負って生計を立て、時にはスクパの依頼も受けた[5]。多く手掛けた挿絵の中でも、1939年に制作した童話集『小玉のようなクマちゃん』の挿絵は特に好評を博した[7]。1938年のナチスのチェコスロバキア侵攻後、トルンカは妻を疎開させて自身はプラハにとどまり、1939年からプラハ国民劇場で舞台美術を担当する。第二次世界大戦中のトルンカは自分の作品と食料品を交換し、時にはゲシュタポの命令で芸術家として強制的に労働させられる[7]

1945年5月29日、プラハのトリック映画スタジオを設立した若いアニメーターたちは、自分たちの指導者になってくれないかとトルンカに頼み、トルンカはあいまいに頷いて答えた[8]。第二次世界大戦が終結して1か月も経たない後、トルンカはプラハに設立された国立映画製作所のアート・ディレクターに就任する。トルンカはヘルミーナ・ティールロヴァーカレル・ゼマンらと共にチェコアニメの三大巨匠と並び称され、3人が本格的に活動を開始する1945年が、真の意味でのチェコアニメの始まりの年だと言われている[9]

ディレクターに就任したトルンカはヴラジミール・ノヴォトニー、エドゥアルト・ホフマン、ヤロスラフ・イーロヴェッツらとともに制作の指揮を執った[10]。トルンカを招聘したアニメーターたちは彼がイラストレーターとして活躍することを期待していたが、トルンカは次第に脚本、演出にも取り掛かるようになる[11]。最初トルンカはセルアニメ(ドローイングアニメーション)に挑戦し、「ディズニー型のアニメーション」からの脱却を目指して制作された『動物たちと山賊』をはじめとする4つの作品が、1946年のカンヌ国際映画祭で上映される[12]。トルンカが制作した4本のセルアニメには、ナチスに対するレジスタンス精神が表れていた[6]

トルンカは制作現場の主流派が唱える政治的スタンスをアニメーションに反映させるべきだという主張に納得できなかった[13]。セルアニメの制作場であるトリック兄弟スタジオを去り、人形アニメーションのための小さな撮影所に移るが、当時のチェコではまだ人形アニメーションは注目されておらず、トルンカが移った撮影所はトリック兄弟スタジオから独立していなかった[14]。1947年に人形による長編アニメーション『チェコの四季』を完成させ、国内での評価は芳しくなかったが、国際的に高い評価を受けた[15]。1948年から1959年にかけて、『皇帝の鶯』『バヤヤ』『チェコの古代伝説』『真夏の夜の夢』の4本の長編を制作した。また、これら5本の長編の制作の合間に、トルンカは多くの短編を制作した[16]。1948年以降はトルンカはチェコスロバキア政府から資金援助を受けるが、芸術的自由を抑圧されることは無かった[2]

1950年の『バヤヤ』の成功を受け、独立した人形アニメーション映画スタジオが設立される[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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