マイティ・イゴール・ボディック
1973年
プロフィール
リングネームイゴール・ボディック
マイティ・イゴール
グレート・イゴール
ジョニー・ブルース
ディック・ガルザ
本名リチャード・ジョセフ・ガルザ
ニックネーム岩石野郎
ポーリッシュ・ストロングマン
身長188cm
体重130kg(全盛時)
誕生日1931年7月16日
死亡日 (2002-01-07) 2002年1月7日(70歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ミシガン州
ウェイン郡ディアボーン[1]
スポーツ歴ボディビルディング
ウエイトリフティング
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イゴール・ボディック(Igor Vodik、本名:Richard Joseph Garza、1931年7月16日 - 2002年1月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州ディアボーン出身のポーランド系アメリカ人。
マイティ・イゴール(Mighty Igor)のリングネームでも知られ、ポーランド移民の肉体労働者をギミックとしたベビーフェイスの怪力ファイターとして活躍した[1]。第16代AWA世界ヘビー級王者[2]。 10代の頃からボディビルディングとウエイトリフティングで活躍し、ボディビルでは1954年に Mr. Michigan に選ばれた[1]。デトロイトのジムで働いていた際、彼に因縁をつけてきたプロレスラーのブルート・バーナードをノックアウト、その噂を聞きつけたプロモーターのバート・ルビーにスカウトされ、プロレス界にデビューしたという[1]。 デビュー後の1950年代後半から1960年代初頭にかけては、ルビーの主宰する地元ミシガンのウルヴァリン・レスリングやロサンゼルスのWWAなどで、ディック・ガルザ(Dick Garza)のリングネームでアスリート系のベビーフェイスとして活動。ウルヴァリン・レスリングでは1964年2月11日、因縁のバーナードからミシガン・ヘビー級王座を奪取している[3]。 その後、ミネアポリスのAWAに参戦。バーン・ガニアの提案でポーランド移民の肉体労働者をイメージしたキャラクター、"マイティ" イゴール・ボディック("Mighty" Igor Vodik)として活動する[4]。1965年5月15日、ネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得[2]。1週間後の5月22日にバションに奪還され短命王者で終わったものの、その名をマット界に知らしめた。以後もAWAではドン・ジャーディンを相手にネブラスカ・ヘビー級王座を争い[5]、1967年12月9日にはボブ・オートンを下してAWA中西部ヘビー級王座にも戴冠している[6]。1968年8月22日にはドクターXことディック "ザ・デストロイヤー" ベイヤーのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した[7]。 1971年7月、ジャック・ブリスコ、クリス・マルコフ、ジョージ・スティール、ビクター・リベラなどと共に、グレート・イゴール(Great Igor)の名義で日本プロレスに来日[8]。この日本遠征では真価を発揮できなかったものの、以降もイワン・カルミコフ(エドワード・ブルース)をマネージャーに、ポーリッシュ・ストロングマン(The Polish Strongman)のギミックで各地を転戦[1]。車を持ち上げ、チェーンを引きちぎり、頭でブロックを叩き割るなどの怪力パフォーマンスを行う一方、玩具やポーリッシュ・ソーセージを持って入場し、それをファンに分け与えるなど、「気は優しくて力持ち」を体現したような純真でコミカルなキャラクター設定のもと、子供たちの声援を浴びた[1]。 1970年代中盤は古巣デトロイトのNWAビッグタイム・レスリングにてザ・シークと流血戦を展開。ディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスのWWAでは、オックス・ベーカーが保持していたWWA世界ヘビー級王座に挑戦した[9]。ミル・マスカラスを世界王者にアメリカ北東部で旗揚げされたIWAにも出場し、ブルドッグ・ブラワー、イワン・コロフ、エリック・ザ・レッドらと対戦[10]。1977年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦、マスクド・スーパースターと抗争を繰り広げた[1][11]。その後はデトロイトに戻り、1980年4月18日にシークからUSヘビー級王座を奪取[12]。1981年はNWAフロリダ地区に登場、若手ヒール時代のハルク・ホーガンとも再三対戦した[13]。 1980年代中盤からは、カルロス・コロンの主宰するプエルトリコのWWCを主戦場に活動。ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンなどの大物ヒールと対戦した(シンとの試合は、日本で発売されたカリビアン・プロレスの映像ソフトにも収録されている)。
来歴