イグナチオ・デ・ロヨラ
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「イグナチウス・デ・ロヨラ」と「イグナティウス・デ・ロヨラ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「イグナチウス・デ・ロヨラ (曖昧さ回避)」、「イグナティウス・デ・ロヨラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

イグナチオ・デ・ロヨラ
イエズス会創立者

教会カトリック教会
イエズス会
個人情報
出生1491年10月23日もしくは12月24日
カスティーリャ王国ギプスコア地方アスペイティア
死去1556年7月31日(1556-07-31)(64歳)
教皇領ローマ
出身校 パリ大学
聖人
称号証聖者
列福1609年7月27日
ローマ
列福決定者パウルス5世
列聖1622年5月22日
ローマ
列聖決定者グレゴリウス15世
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イグナチオ・ロペス・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola、またはInigo Oinaz Loiola、英語:(Saint) Ignatius of Loyola[1]、ラテン語:Ignatius de Loyola[要出典]、スペイン語:(San) Ignacio de Loyola[2]バスク語:Ignazio Loiolakoa[要出典]; 1491年10月23日もしくは12月24日 - 1556年7月31日[要出典])は、カスティーリャ王国バスク地方出身の修道士。カトリック教会修道会であるイエズス会の創立者の1人にして初代総長[3]バスク人

同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。ロヨラは『霊操』の著者としても有名で、対抗宗教改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。
生涯
前半生

イグナチオ・デ・ロヨラことイニゴは、バスク地方ギプスコア地方アスペイティアにあるロヨラ城で生まれた。13人兄弟(上智大学公式サイトは12人兄弟としている[要出典])の末っ子だったイニゴは7歳で母を失い、1506年に親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を勤めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。1517年以降、イニゴは軍務について各地を転戦したが、1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。
修道生活へ

療養生活の間、暇をもてあましたロヨラは騎士道物語が読みたかったが、そこにはなかったので仕方がなくイエス・キリストの生涯の物語や聖人伝を読みはじめた。やがて、彼の中に聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれてきた。彼は特にアッシジのフランチェスコの生き方に影響され、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させたいという夢を持つにいたった。聖人にあこがれるあまり、彼は自分の名前をイニゴから(アンティオキアのイグナティオスにならって)イグナチオに改めている。

健康を回復すると、ロヨラは1522年3月25日モンセラートベネディクト会修道院を訪れた。そこで彼は世俗的な生き方との決別を誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げ、カタルーニャマンレザにある洞窟の中にこもって黙想の時を過ごした。そこでロヨラは啓示を受けたとされている。ここにいたってロヨラは世俗の出世を捨て、ひたすらわが身を聖母に捧げることを誓った。それでも、もとが軍人だっただけに以後の彼の言葉の中には、軍事的な用語やイメージがよく用いられている。

このころ、ロヨラはすでに『霊操』の原案ともいうべきものをまとめていた。これは彼のもとに霊的指導を求めてやってきた人に対して行った一連の黙想のテーマ集であった。『霊操』の影響はイエズス会にとどまらず、以後のカトリック教会全体にまで及ぶことになる。
パリでの日々とイエズス会の結成紙本著色聖母子十五玄義・聖体秘跡図』(重要文化財京都大学総合博物館所蔵)[4]、画面下の前列にロヨラ(左)とザビエル(右)を描く。「隠れキリシタンの里」であった大阪府茨木市の下音羽地区の民家から発見されたもので、イエズス会のセミナリヨで西洋絵画の技法を学んだ日本人画家による作品と推定される[5]

ロヨラはスペインアルカラ大学を経て、1528年フランスパリ大学へ入学し、一般教養と神学を学んだ。パリでは7年学んだが、多くの人々がロヨラの霊的指導を求めてやってきた。その中で1534年までに彼は6人の重要な同志を得ていた。フランス出身のピエール・ファーヴル、ロヨラと同じくバスク出身のフランシスコ・ザビエル、スペイン人のアルフォンソ・サルメロンディエゴ・ライネスニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル人のシモン・ロドリゲスであった。

1534年8月15日、ロヨラと6人の仲間はモンマルトルの丘に登り、サン・ドニ記念聖堂で唯一の司祭だったピエール・ファーブルのたてるミサにあずかって、神に自分の生涯をささげる誓いを立てた。世に言う「モンマルトルの誓い」である。彼らの立てた誓いは「今後、7人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」というものであった。これがイエズス会の始まりである。

1537年、7人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かった。時の教皇パウルス3世は一同の知的レベルと志の高さを認め、司祭叙階と聖地巡礼の許可を与えた。6月24日ヴェネツィアに赴いた一行はアルベの司教から司祭叙階を受けた。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝カール5世や教皇、オスマン帝国を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航をあきらめ、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてた。

1538年10月、ファーヴルおよびライネスを従えて再びローマに赴いたロヨラは、教皇から修道会の会憲の認可を得ることで正式な許可を得ようとした。会憲を審査した枢機卿団は好意的な評価を下し、パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』で会を正式に許可した。その際の唯一の条件は会員数が60名を越えないことということであった。この制限も3年後の1543年3月14日に出された回勅『イニュンクトゥム・ノビス』で撤廃された。
イエズス会総長として


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