イギリス領マラヤ(イギリスりょうマラヤ、英: British Malaya)は、18世紀から20世紀にわたりマレー半島とシンガポール島に存在した海峡植民地とその他の地域からなるイギリス支配下の連邦。
日本国内に現存する公的資料では、英領マレーとされている[1][2][3]。 英領マレーの範囲は、北端が北緯6度43分、南端が北緯1度15分、東端が東経104度17分、西端が東経100度7分である[4]。マレー半島南部のほか、ボルネオ東岸の一島峡、インド洋の一島峡一諸島から成り立ち、行政上は、海峡植民地(Straits Settlements)、マレー連邦
概要
海峡植民地イギリス本国の直轄地シンガポール、マラッカ、ペナン、ココス島、クリスマス島、ラブアン島 マラッカは、1365年、マジャパヒト王国の侵略を受けたシュリーヴィジャヤ王国のパラメスワラ
マレー連邦イギリスの海峡植民地総督(英語版)の下で連邦を組織ペラ、セランゴール、ネグリ・セムビラン、パパン
マレー非連邦イギリスの顧問が条約締結により統治に参加、連邦を組織せず地域間の相互協力を有しないジョホール、ケダー、ペルリス、ケダン、トレンガヌー
海峡植民地
マラッカ
1511年には、ポルトガルのアフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカに侵略(マラッカ占領(英語版))してポルトガル領マラッカ(英語版)を築き、東アジアにおける最古のヨーロッパ人植民地のひとつとなった[6]。
その後、オランダ東インド会社を設立してアジアに進出したオランダは、オランダ・ポルトガル戦争(英語版)の一環として行われたマラッカの戦い(英語版)の結果、ポルトガルに勝利し、1641年に、マラッカからポルトガルを駆逐し、オランダ領マラッカ(英語版)を築き、以後、1世紀以上にわたるオランダの支配権を確立した[6]。
ところが、フランス革命戦争が勃発して、オランダ本国がフランス革命軍によって占領されると、1795年には、マラッカをはじめとするオランダ領東インドは、イギリスの支配するところとなり、イギリス東インド会社の前線となった[6]。
1818年には、イギリスからオランダに対してマラッカが一時的に返還されたものの、1824年の英蘭協約によって、マラッカ海峡を境に植民地の交換が行われ、マラッカを含むマレー半島においては、イギリスの支配権が確立することとなった[7]。
マラッカは、ポルトガルによる占領当時、東アジアにおける貿易の一大集散地であったが、ポルトガルとマレー半島及び隣接諸国との通商が発達するに伴い、マレー半島及びスマトラ島との貿易を除いては、漸次、その価値が低下し、1786年にペナンが開港すると、マラッカの重要性は失われた[8]。 ペナンは、マレー半島におけるイギリスの最古の植民地であり、1786年にイギリス東インド会社が6000ドルの年金の支払を条件として、ケダーのラージャ(スルターン)から割譲を受けたものである[8]。さらに、1800年には、海賊の跋扈を口実に、年金額を1万ドルに増額して、対岸のウェレズレー(Province Wellesley、現在のセベラン・ペライ
ペナン
1826年には、シンガポール及びマラッカとともに海峡植民地を構成し、ペナンに政庁が置かれたが、1836年には、シンガポールに政庁が移転した[8]。
1826年、海賊鎮圧を名目に、イギリスは、パンコール島(Pangkor)及びスンビラン島(マレー語版)(Sembilan)を奪取し、1874年には、パンコール条約(英語版)によって、対岸のディンディンス(Dindings、現在のマンジュン郡(英語版)。)を獲得した[8]。ただし、ディンディンスについては、1934年6月6日、ペラに返還された[8]。 シンガポールは、スマトラ島からの移住者によって建設されたと伝えられており、1819年にトーマス・ラッフルズがジョホール王国から割譲を受けるまでは、無住の地であった[8]。シンガポールは、初め、ベンクーレン(Bencoolen)に従属していたが、1823年にベンガル政庁の下に置かれ、1826年には、マラッカとともに連合植民地会議(Council of the Settlements)の下に置かれた[9]。 ココス諸島(別名キーリン諸島(Keeling Islands))は、1857年、イギリス領と宣言され、1878年10月3日付け大勅書(Letters Patent under His Signs Manual and Signet)によって、セイロン総督の管下に置かれ、1886年2月1日付け大勅書によって、海峡植民地総督の下に移管され、1903年、海峡植民地に併合され、シンガポールの一部となった[10]。
シンガポール
ココス諸島