イキレス氏(生没年不詳)は、イキレス部出身の女性で、モンゴル帝国第7代皇帝クルク・カアン(武宗カイシャン)の妃の一人。名前は伝わっておらず、「イキレス部出身の女性(亦乞列思氏)」であったことしか知られていない。
元来は地位の低い妃であったが、息子のコシラがカアン位に即いたことで仁献章聖皇后として追諡されている。 『元史』巻114列伝1后妃伝によると、イキレス部の出身でネウリン(Neulin >奴兀倫/nuwulun)公主の娘として生まれたという。 カイシャンにはジンゲというコンギラト部出身の正妃がいたが、ジンゲからは息子が生まれず、カイシャンの息子はイキレス氏が生んだコシラ(後の明宗クトクト・カアン)とタングート氏が生んだトク・テムル(後の文宗ジャヤガトゥ・カアン)がいるのみであった。 カイシャンがカアンに即位した時、弟のアユルバルワダとの間に「アユルバルワダを皇太子(次期カアン)とする代わりに、アユルバルワダの後はカイシャンの息子(コシラ、トク・テムル)を皇太子(次期カアン)にする」という約束がなされていたが、この約束はカイシャン、アユルバルワダの母で絶大な権勢を得ていたダギの意向によって無視された。これはダギがコンギラト出身であり、非コンギラト出身の女性(イキレス氏、タングート氏)を母とする人物をカアンに戴くことを認め難かったためと考えられている。そのため、アユルバルワダの皇太子とされたのは、アユルバルワダとコンギラト出身の妃ラトナシリの間に生まれたシデバラ(後の英宗ゲゲーン・カアン)であった。 さらに、ダギは自らの計画に目障りなコシラを暗殺しようとまでしたが、間一髪逃れたコシラはチャガタイ・ウルスに亡命することとなった。イェスン・テムル・カアン(泰定帝)の死を経て天暦の内乱が勃発すると、これを好機と見たコシラはチャガタイ・ウルスの協力を得て大元ウルスに帰還し、天暦2年(1329年)にクトクト・カアンとして即位した[1]。 同年、イキレス氏は仁献章聖皇后に追諡されたが、コシラはエル・テムルらによって即位直後に暗殺された。その後、エル・テムルらの後ろ盾の下、コシラの異母弟でタングート氏の息子のトク・テムルが即位した[2][3]。
概要
脚注^ 杉山1995,120-132頁
^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「武宗……妃二人:亦乞列思氏、奴兀倫公主之女、実生明宗、天暦二年追諡仁献章聖皇后。唐兀氏、生文宗、天暦二年追諡文献昭聖皇后」
^ 『元史』巻30明宗本紀「明宗翼献景孝皇帝、諱和世?、武宗長子也。母曰仁献章聖皇后、亦乞列思氏」
参考文献
杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)
太祖チンギス・カン
第1オルド:光献翼聖皇后ボルテ(コンギラト氏)
第2オルド:皇后クラン(メルキト氏)
第3オルド:皇后イェスイ(タタル氏)
第4オルド:皇后イェスゲン(タタル氏)
太宗オゴデイ
正宮ボラクチン
昭慈皇后ドレゲネ(ナイマン氏)
二皇后モゲ
エルゲネ妃子
定宗グユク
欽淑皇后オグルガイミシュ(メルキト氏)
憲宗モンケ
第1オルド:クトクタイ(イキレス氏)
第2オルド:クタイ/イェスル(コンギラト氏)