イェルマーク
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この項目では、コサックの探検家、軍人について説明しています。その他の用法については「エルマーク (曖昧さ回避)」をご覧ください。
イェルマーク

イェルマーク・チモフェーイェヴィチ(ロシア語: Ерма?к Тимофе?евич, ラテン文字転写: Yermak Timofeyevich, ロシア語発音: [j?r?mak t??m??f?ej?v??t??]; 1532年1542年)‐1585年8月5日6日))はコサック頭領シベリア探検家である。彼のシベリア探検と、シビル・ハン国侵攻が、その後のロシアのシベリア征服の皮切りになった。また、彼の活躍はロシア民話の英雄として語り継がれた。イェルマーク、エルマークとも。
概要

イェルマークの本名は不明である。伝承による本名はヴァシーリー[注釈 1]となっているが、それを裏付ける史料がない。歴史学者の間では、「イェルマーク」はロシア語の「イエメーリャ」・「イエレメーイ」・「ヘールマン」の名前の愛称、あるいはタタール語の渾名であると考えられている。出身についても不明な点が多く、モスクワ大公国カマ川流域農民出身説、ドン川のカチャリンサカヤ集落コサック出身説、白海南岸の農民出身説などの諸説はあるが、定説はない。“イェルマークの死、1584年" 『ロシア歴史物語』 L. P. シェルグノヴァ著のカバーより。1901年

豊かな商人一族であるストロガノフ家は、イヴァン4世から「カマ川沿いの豊かな地域」を植民地化する許可を得ていた。1574年にはウラル山脈のカマ川水系とオビ川水系が入り組んだ低い部分を越えて、トゥラ川トボル川の地域へ達した。ストロガノフ家は領地や事業を守るために、ツァーリ政府に対し、砦を建設する許可を求め、許された。1581年には、新たに、コサックを雇い入れヴォグール人(マンシ人)の襲撃を防ぐ許可を得た[1]

そうした状況の中、モスクワ大公国と敵対するシビル・ハン国[注釈 2]が攻撃してきた。ストロガノフ家は、イェルマークによるシビル・ハン国攻略の提案を受け入れた[2]
シビル・ハン国攻略詳細は「シビル・ハン国攻略(英語版)」を参照

ストロガノフ家は、イェルマークらに金銭や軍需品などを与えた。シベリア史家バフルーシンによると、イェルマークらの遠征隊は「本質において、ストロガノフ家がその私的利益のために組織した企業であった」[3]

1579年または1581年9月に、イェルマークの軍勢540人は東進を開始した。チュソワヤ川から、ウラルを越えて、タギル川、トゥーラ川、トボル川、イルティシ川を経て、シビル・ハン国の首都カシリク(イスケルという説もある[4]。)を攻撃した[5]。当時のシビル・ハン国の支配者はクチュム・ハーンである[6]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}カザク兵は敵の鹿柴(ろくさい)に向かってばく進し、八方から押し寄せてくるタタール兵と熾烈な戦闘を開始した。先頭にはエルマクとイワン・コリツォがカザクの将軍団を指揮して、しばらく剣と槍を縦横に振りかざして緊密な体制を保ちながら、さらに絶え間なく火打銃を発射し、吶喊(とっかん)の声をあげて進撃した。この白熱戦において敵将マフメット・クル(クチュム・ハーンの甥)は銃傷を受け、やむなく後方イルティシ河岸に運び去られたので、その後の統帥を失った敵兵は、まもなく算を乱して逃散してしまった。—サドコーニフ『シベリア征服史』

[7]

この、シビル・ハン国の首都カシリク近郊のイルティシ川のチュヴァシ岬(ロシア語版)で起きた戦い(チュヴァシ岬の戦い(英語版))で、イェルマークは勝利してカシリクを占領した。シビル・ハン国のクチュム・ハーンらは首都を放棄して草原へ逃げた。
最期

1585年8月5日または6日、イェルマークの部隊は、シビル・ハン国の残党から急襲を受け(Battle of Wagay River)、壊滅状態となった。イェルマーク自身も傷つき、戦死した。

その後もロシアのシビル・ハン国へ攻撃は続き、シビル・ハン国は1598年オビ川(ウマル川)での戦い(Battle of Urmin)で滅亡する。
ロシア民話の英雄としてイェルマークを描いたルボーク(民衆版画)19世紀

イェルマークをめぐる伝説は数多く、シベリアの少数民族のあいだでも語られている[7]。教育社歴史新書『コサック』のなかで、著者の阿部重雄は、イェルマークやシビル・ハン国との戦いについて、当時の事実関係は完全には明らかになっておらず、イェルマークらを描いた各種の年代記は、それぞれ口承伝説を元にして作りあげられたのであろうと考えている[8]。 阿部は、定説になった物語に準拠しつつ、以下のような『イェルマーク遠征物語』を示してみせた[9]


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