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Pogrom w Jedwabnem
Jedwabne pogrom
第二次世界大戦中
イェドヴァブネ事件の犠牲者を追悼する碑
場所
ナチス・ドイツ占領下のポーランド
イェドヴァブネ
イェドヴァブネ事件(ポーランド語: Pogrom w Jedwabnem / mord w Jedwabnem)とは、第二次世界大戦中の1941年7月10日、ナチス・ドイツ占領下のポーランド北東部の町イェドヴァブネ(ポーランド語版、英語版)で起きたユダヤ人の虐殺事件(ポグロム)である。
この町およびその周辺のユダヤ人住民が、隣人であったポーランド人によって暴行され、納屋に集められ生きたまま焼き殺された[2][3]。犠牲者の数は少なくとも340人[1][3]、町にいたユダヤ人のほぼ全員が殺されたと仮定すれば900人から1,600人との推定もある。
イェドヴァブネ事件そのものは以前から知られていたが、長い間ドイツ軍によるものと考えられていた[2]。ポーランド系アメリカ人の歴史学者ヤン・グロスが2000年に出版した著書の中で、ポーランド人が主体的な加害者であるとの指摘がなされ、ポーランド国家記銘院(IPN)による再調査によってその事実が確認された[4]。この地域を占領中であったドイツ軍の関与の程度は依然として不明であるが、発端の部分には関与したとされる[5][6]。
一般のポーランド人がポグロムの加害者となったこの事件は、大きな論争に発展した[4]。IPNの調査により、ポーランド人によるポグロムはイェドヴァブネ事件にとどまらず、広範に存在していたことが判明している[7][8][9]。この事件は、第二次世界大戦中のポーランド人とユダヤ人の関係だけでなく、ポーランド史の、またポーランド人の集団的自己イメージの再評価といった重要な問題を提起した[10]。 ポーランド北部のビャウィストク地方
背景
1939年9月、その前の月に締結された独ソ不可侵条約および付随する秘密議定書に則って、ソビエト連邦軍がポーランドに侵攻。ビャウィストク地方もソビエト連邦支配下となった。この時期の避難民の流入によりイェドヴァブネのユダヤ人人口は約1,600人となったとされる[4]。
1941年6月22日、ドイツがソビエト連邦に侵攻。ドイツの進軍は速やかで、ビャウィストク地方も7月初頭までにドイツ軍の占領下となった。
この地域でナチスは、「ユダヤ人がポーランドに対するソビエトの犯罪行為を支援している」とプロパガンダを行うとともに、地域のユダヤ人を殺害するための特務部隊を組織した。イェドヴァブネ北東の町ヴィズナ(ポーランド語版、英語版)ではドイツ軍によって数十人のユダヤ人が銃殺されるところが目撃されている。 2000年5月、ポーランド系アメリカ人でニューヨーク大学教授のヤン・グロスが『隣人たち(原題:S?siedzi: Historia zag?ady ?ydowskiego miasteczka)』を上梓した。ポーランド人が主体となってユダヤ人を殺害したとするその内容をめぐってポーランドで大論争となり[4]、報道、雑誌、テレビやラジオなどで多くの議論が行われた[11]。ポーランド人がそのようなことをしていたはずがない、というのが典型的な反応であった[12]。 この著書の中でイェドヴァブネ事件は次のように描かれている[4]。 これらの記述が事実に即しているかが議論となった。グロスは、ユダヤ人らが経験した現実は言われている以上に悲劇的であったはずであるとして、生き残ったユダヤ人の証言を、反証がない限りそのまま採用するという「原史料への新しい態度」を表明していた。またグロスは、1949年にソビエト共産党政権下で行われたイェドヴァブネ事件の裁判での証言内容を採用していた。これらの点は、史料批判の軽視として歴史家から批判された[4]。 また、グロスの挙げる1,600人という 数字にも疑問が投げかけられた。事件当日ユダヤ人が閉じ込められ焼き殺された納屋に、それだけの人数を収容するのは到底不可能であったからである。ただしこの数字はグロスが水増しした数字ではなく、1960年代初めに建てられた記念碑の数字を踏襲したものであった[4]。虐殺の見取り図 2002年の国家記銘院による調査結果報告によれば、事件の概要は以下のようなものである[1]。 関与した人々、被害者数については以下のように結論付けた[1]。
ヤン・グロスの著書『隣人たち』
イェドヴァブネの人口は1931年の時点で約2,000人で、そのうち60%がユダヤ人であった。イェドヴァブネは1939 年にソ連占領下に入るが、この時期に避難民の流入でユダヤ人人口は約1,600人となった。
7月10日、イェドヴァブネのポーランド人によりユダヤ人の虐殺が計画、実行された。占領者であるドイツ側の教唆はあったとしても強制されたわけではなく、率先して虐殺に参加した。
ユダヤ人たちは町外れまで行進させられ墓穴を掘らされたのち撲殺された。あるいは納屋に閉じ込められ火をつけられて焼き殺された。女性や老人、子どもも殺害された。
ユダヤ人は中心部の広場に集められて暴行を受けた後、赤破線のルートで連行されて焼き殺された。
虐殺事件
1941年7月10日朝、イェドヴァブネのユダヤ人は強制的に家から追い立てられ、広場に集められた。
ポーランド人らは、40人ほどのユダヤ人の一団に命令し、広場の敷石の間の雑草の除去を行わせた。さらに広場近傍のレーニン像を破壊させ、砕けた胸像を木製の担架で納屋まで運ばせた。このグループがどのように殺害されたのかは判然としていないが、遺体は納屋の中で掘られたばかりの墓穴に入れられ、その上に破壊されたレーニン像が投げ入れられた。
一方、ほかのユダヤ人の一団は、広場から納屋へ連行された。納屋の戸が閉められ、火がつけられた。ソビエト軍の弾薬庫にあったケロシンを使用したと考えられた。人数は300人ほどで、女性や子どもも含まれていた。
ドイツ軍による教唆があった可能性があり、当日も数人のドイツ人が現地にいたのは確かだが、殺害行為への積極的な関与の証拠はない。
ポーランド人が犯行に決定的な役割を果たした。
少なくとも40人のポーランド人が実行犯として積極的に加わった。
1,600人という被害者数は考えづらい。
ヴィズナやコルノ
なお、100?150人はこの虐殺から逃げ延びることができた[11]。 この事件がドイツによる教唆によって計画された可能性は報告書で指摘されているが、主体的実行犯はポーランド人であり、その理由が様々に議論されてきた。 代表的なものは「ユダヤ人の対ソ協力」というものである。ドイツの侵攻以前のポーランドはソビエトによる占領が行われていたが、この期間、ユダヤ人がその人口に比べ過剰に指導的な地位についていたこと、およびその行為がポーランド人に対する抑圧に結びついていたことが指摘されている。
動機