イアン・マシューズ
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イアン・マシューズ
Iain Matthews
イアン・マシューズ(2007年)
基本情報
出生名Ian Matthews MacDonald
別名Ian MacDonald
Ian Matthews
Iain Matthews
生誕 (1946-06-16) 1946年6月16日(77歳)
出身地 イングランド リンカーンシャー、バートン・アポン・ハンバー
ジャンルカントリーロックフォークポップロック[1]
職業ミュージシャン、シンガーソングライター
担当楽器ボーカル、ギター
活動期間1967年 - 現在
レーベルデッカ/Deram、ポリドール、Uni/MCA、ヴァーティゴエレクトラコロムビア/CBS、Mushroom、ウィンダム・ヒル、Mooncrest、Gold Castle、Perfect Pitch、Blue Rose、Brilliant、Watermelon、Omnivore、Fledg'ling、MK2
共同作業者フェアポート・コンヴェンション
Plainsong
Matthews Southern Comfort
公式サイト ⇒iainmatthews.nl

イアン・マシューズ(出生名:Iain Matthews MacDonald、1946年6月16日 - )は、イギリスのミュージシャン、シンガーソングライター。1967年から1969年までイギリスのフォーク・ロック・バンド、フェアポート・コンヴェンションのオリジナル・メンバーだったが、その後脱退して自身のバンド、マシューズ・サザン・コンフォートを結成し、1970年にジョニ・ミッチェルの曲「ウッドストック」のカヴァー・ヴァージョンで全英1位を獲得した。[2]

リンカンシャー州バートン・アポン・ハンバーに生まれたマシューズは1960年代にはイアン・マクドナルド(Ian MacDonald)として知られていたが、ジュディ・ダイブルがフェアポートを脱退した際に一緒に活動を始めたキング・クリムゾンイアン・マクドナルドとの混同を避けるために、1968年に母の旧姓であるイアン・マシューズ(Ian Matthews)に改名した。1989年、彼はファーストネームのスペルをIainに変え、それ以来Iain Matthewsとして知られている。[3]

ロックンロールフォークミュージックの両方に影響を受け、ソロ・アーティストとして、またさまざまなバンドのメンバーとしても演奏していきた。 アメリカのフォーク・ロックの影響を強く受けていた初期のフェアポート・コンヴェンションのメンバーで、1969年に脱退するまで最初の3枚のアルバムで歌っていた。脱退後は最初にソロのキャリアに着手し、その後マシューズ・サザン・コンフォートとプレインソングと言う2つのバンドを結成した。その後、Hi-Fi、No Gray Faith、More Than A Song [4]と言ったバンドのメンバーでもあり、2000年代には、プレインソングとマシューズ・サザン・コンフォート (MSC) の両方を2度復活させている。 現在も現バージョンのMSCで定期的にツアーを続けており、新しいアルバム "The New Mine" が2020年3月末にリリースされる予定である。

50年以上に及ぶキャリアの中で、100枚以上のアルバムにフィーチャーし、2018年には作家で放送作家のイアン・クレイトンと共同執筆した、音楽業界での人生についての自伝的な本 Thro' My Eyes : A Memoir'' を出版した。[5]
原点

マシューズの家族は、12歳のときにリンカンシャーのスカンソープに引っ越した。16歳で学校を中退し、地元の絵画および装飾会社の見習いサインライターとして働いた。1960年代半ばのブリティッシュポップミュージックの爆発的な盛り上がりの中、スカンソープでいくつかの地元のバンドと一緒に歌った後、1965年の春にロンドンに移り、カーナビーストリートの靴屋ラヴェルに就職した。1966年に、スティーヴ・ハイエット、アル・ジャクソンとともに短命のイギリスのサーフ・ミュージック・バンドである3人組、ザ・ピラミッド(後に定冠詞なしのピラミッド)を結成した。ピラミッドは1967年1月にDeram Recordsからシングル "Summer of Last Year" をリリースした 。 残りの曲 "Me About You" は、1999年にマシューズののOrphans&Outcasts Volume 3に収録された。
フェアポート・コンヴェンション

1967年の冬、マシューズはアシュリー・ハッチングスによってフェアポート・コンヴェンションの男性ボーカリストとしてスカウトされた。マシューズはセルフ・タイトルのファースト・アルバム『フェアポート・コンヴェンション」でジュディ・ダイブルと、セカンド・アルバム『ホワット・ウィー・ディド・オン・アワ・ホリデイズ』ではサンディ・デニーと共に歌った。1969年の『アンハーフブリッキング』のレコーディング中、フェアポートが伝統的なイギリスのフォーク・レパートリーを取り入れた曲作りを進める中で、マシューズはレコーディング・セッションに招待されていないことを知り、プロデューサーのジョー・ボイドおよびアシュリー・ハッチングとの短いディスカッションの後、バンドを脱退し、自身の音楽的な方向性に向かって旅立っていった。[6]
マシューズ・サザン・コンフォート

1969年にマシューズは、アメリカのカントリーミュージックロカビリーに根ざしたデビュー・ソロ・アルバム『マシューズ・サザン・コンフォート (Matthews' Southern Comfort)』をレコーディングした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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