イアン・ギラン
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イアン・ギラン
2022年撮影
基本情報
生誕 (1945-08-19) 1945年8月19日(78歳)
出身地 イングランド ロンドン
ジャンルハードロック
ヘヴィメタル
ブルースロック
プログレッシブ・ロック
職業ボーカリスト
作詞家
活動期間1965年 - 現在
共同作業者The Javelins
エピソード・シックス
ディープ・パープル
イアン・ギラン・バンド
ギラン
ブラック・サバス
ギラン=グローヴァー
WhoCares
公式サイト ⇒http://www.gillan.com/jp-ra.html Ian Gillan - Caramba!

イアン・ギラン(Ian Gillan、1945年8月19日 - )は、イングランド出身のロックボーカリスト。身長185cm。

ハードロックバンドの「ディープ・パープル」のメンバーとして知られる[1]2016年、同バンド名義でロックの殿堂入り[2]
来歴ディープ・パープル時代 (1972年)ギラン時代 (1983年)
生い立ち

ロンドンハウンズローにてスコットランド系の家庭に産まれる。

少年時代にエルヴィス・プレスリーに憧れたのがきっかけで1962年にガース・ロケット・アンド・ザ・ムーンシャイナーズというアマチュア・バンドを結成し音楽活動を始めた。当初ボーカルとドラムを兼任していたが、程なくしてボーカル専任になった。
黎明期

セミ・プロフェッショナル・バンドのザ・ジャヴェリンズ(英語版)(The Javelins)[3][4]、ウェインライツ・ジェントルメン(Wainwright's Gentlemen)[5]を経て、1965年5月にエピソード・シックスに参加。詳細は「エピソード・シックス」を参照
ディープ・パープル

1969年7月、エピソード・シックスの同僚のロジャー・グローヴァーと共に第2期ディープ・パープルに加入して、ボーカルとパーカッションを担当。ブルースをベースに金切り声を立てる独特のボーカル・スタイルを披露して、後続のヘヴィメタルボーカリストに大きな影響を与えた。詳細は「ディープ・パープル」を参照

第2期ディープ・パープルはスタジオ・アルバム『イン・ロック』、『ファイアーボール』、『マシン・ヘッド』、『紫の肖像』、1972年の初来日公演を収録した『ライヴ・イン・ジャパン』を残した。

ギランはツアーに明け暮れる日々[6]の中で、ギタリストのリッチー・ブラックモアとの対立を徐々に深めていった。1972年12月9日、彼はマネージメントに手紙を送って、1973年6月30日に脱退する意思を表明[7]。その言葉の通り、2度目の日本公演の最終日に当たる6月29日の大阪公演を終えて、翌日に脱退した[8]
ジーザス・クライスト・スーパースター

ディープ・パープル在籍中の1970年イエス・キリストの最後の7日間を描いたミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター[注釈 1]のオリジナル・キャストのアルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター(英語版)』の録音に参加し[注釈 2]、主人公イエス・キリストの役を務めた[9]。この2枚組LPは1971年のビルボード年間アルバム部門で1位となる大ヒットとなり、ニューヨーク・ブロードウェイでの舞台化と1973年の映画化に繋がった[注釈 3]
イアン・ギラン・バンドとギラン

ディープ・パープルを脱退し、音楽業界から退いてモーター・サイクルとホテルの多角経営に従事した。1975年10月16日、グローヴァー主催の『バタフライ・ボール(英語版)』のコンサートで音楽業界への復帰を果たす。

1976年イアン・ギラン・バンドを結成して音楽活動を再開、即興的な音楽からの影響を導入して、ディープ・パープルとは趣の異なるジャズ・ロックのスタイルを披露。日本では人気を博すものの、イギリスではオールド・スクールの音楽は評価されなかった。詳細は「イアン・ギラン・バンド」を参照

1978年にイアン・ギラン・バンドを解散。新たな編成によるギランを結成する。詳細は「ギラン」を参照
ブラック・サバス

1983年、突如ブラック・サバスに加入してアルバム『悪魔の落とし子』を制作。プロモーション・ツアーを行いアンコールに「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を歌ったが、ファンやプレスから「パープル・サバス」と揶揄される事態に陥り、正当な評価は殆ど得られなかった。

1984年4月、第2期のメンバーによるディープ・パープルの再結成に参加する為に、ブラック・サバスを脱退した。
ディープ・パープル詳細は「ディープ・パープル」を参照

ギランはアルバム『パーフェクト・ストレンジャーズ』(1984年)、『ハウス・オブ・ブルー・ライト』(1987年)の制作に参加。しかし再びブラックモアと対立し、1989年に解雇された。

1992年、アルバム『紫の聖戦』の制作中に復帰してレコーディングを完成させるが、ブラックモアを満足させるだけのボーカル・パフォーマンスを提供できなかった。しかしアルバムは1993年7月に見切り発車的に発表され、同年9月下旬から結成25周年記念ツアーが始まった。ギランの復帰にあくまでも反対していたブラックモアはツアー途中の11月下旬のヘルシンキ公演の後に突然脱退。残されたメンバーは急遽代役にジョー・サトリアーニを迎えて2週間後の日本公演を乗り切り、1994年にブラックモアの正式な後任にスティーヴ・モーズを迎えて活動を継続した。

ギランは2023年現在も、メンバーとして活動中。グルジアで妻ブロンと結婚式 (1990年)ファンとのショット (2005年)
2000年代のソロ活動

2006年には、歌手生活40周年を記念したセルフ・カヴァー・アルバム『ギランズ・イン』をリリース。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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