イアン・ウォーレス
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イアン・ウォーレス
Ian Wallace
ロサンゼルスのホームスタジオにて(2005年)
基本情報
出生名Ian Russell Wallace
生誕1946年9月29日
出身地
グレーター・マンチェスター州ベリー
死没 (2007-02-22) 2007年2月22日(60歳没)
ジャンルロック
プログレッシブ・ロック
ジャズ
ブルースロック
職業ミュージシャンドラマー
担当楽器ドラムスパーカッションボーカル
活動期間1968年 - 2007年
共同作業者キング・クリムゾン
アレクシス・コーナー
他多数

イアン・ラッセル・ウォーレス(英語: Ian Russell Wallace、1946年9月29日 - 2007年2月22日)は、イングランド出身のミュージシャンドラマーキング・クリムゾンの元メンバーであり、またボブ・ディランなど多くのミュージシャンとセッション活動を行った。
経歴
少年期から1970年まで

グレーター・マンチェスターベリー出身。学生時代に最初のバンド、ザ・ジャガーズを組みドラムを演奏し始めた。プロキャリアの出発は、1964年、地元の若者達のバンド「ザ・ウォリアーズ」へ加入したところまで遡る。このバンドには、後にイエスを結成するジョン・アンダーソンが兄とともに在籍していた。ウォーレスはザ・ウォリアーズにドラマーとしての腕を買われて誘われたが、彼の母が反対したので、メンバーは彼の実家に説得に行ったという[1][2]

ザ・ウォリアーズはイギリスで一枚シングルを出した後、ドイツに拠点を移し、ドイツやデンマークでライブ活動を行ったが、1967年末に解散。その後、ザ・ウォリアーズとステージで共演していたビッグ・サウンドというバンドからベーシストとドラマーが抜けたため、ザ・ウォリアーズのベーシストのデヴィッド・フォスターと共に加入しスウェーデンやデンマークを巡業。1968年にロンドンへ戻るとThe Sleepyというバンド名義でシングル3枚分をレコーディングしたが、発売されたのは2枚だけであった。この時期セッション・ミュージシャンとしても活動し、リトル・リチャードサンディー・ショウ他多くのアーティストのヨーロッパ・ツアーのバックでドラマーを務める。

60年代末、解散直前のボンゾ・ドッグ・バンドのツアーに参加したことを契機に、1970年春にヴィヴィアン・スタンシャルの企画シングルにキース・ムーンらと参加。BBCのテレビやラジオ番組にも出演した。その縁から1970年夏、ニール・イネスのバンド「ザ・ワールド」に正式メンバーとして迎え入れられた[3]
キング・クリムゾン時代

1970年末、ウォーレスは居候主のキース・エマーソンから、プログレッシブ・ロック・バンドのキング・クリムゾンが、脱退したボーカリスト兼ベーシストのゴードン・ハスケルの後任のオーディションを行っていると聞き、ボーカリストに応募した。結果は不合格であったが、リーダーのロバート・フリップにドラミングの技量を見込まれ、ハスケルに引き続いてキング・クリムゾンを脱退したアンディ・マカロック[注釈 1]に代わるドラマーとして加入することになった。

新しいキング・クリムゾンはフリップ(ギター、メロトロン)、ウォーレス(ドラムス、バック・ボーカル)、ボズ・バレル(リード・ボーカル、ベース・ギター)[注釈 2]メル・コリンズ(サックス、フルート、メロトロン)、ピート・シンフィールド(作詞、照明、FOH・サウンド・エンジニアリング、VCS3・シンセサイザー)の顔ぶれでライブ活動を開始。1971年4月にドイツのフランクフルトで4回のコンサート、5月から10月末までイギリス・ツアー、11月から約1か月間のアメリカ・カナダ・ツアーを行い、7月からはライブ活動と並行して4thアルバム『アイランズ』を制作して12月に発表した。ウォーレスは、多彩で複雑な楽曲を柔軟なスティックさばきで演奏し、また「レディース・オブ・ザ・ロード」ではコーラスにも参加した。

しかし、神秘主義や霊的な世界観にインスピレーションを求め続けるフリップと、アメリカでソウルブルースの影響をより強く受けたウォーレス、バレル、コリンズとは、音楽の方向性を巡って互いの間の溝を深めていった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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