アール・パーマー
[Wikipedia|▼Menu]

アール・パーマー
Earl Palmer
アール・パーマー
(2000年)
基本情報
出生名Earl Cyril Palmer
生誕1924年10月25日
アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 (2008-09-19) 2008年9月19日(83歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州バニング
ジャンルR&Bロックジャズ
職業スタジオ・ミュージシャン
担当楽器ドラムス
活動期間1936年 - 2008年
共同作業者ファッツ・ドミノリトル・リチャード、レッキング・クルー他

アール・パーマー (Earl Cyril Palmer, 1924年10月25日 ? 2008年9月19日)は米国ドラマーであり、ロックンロールを生み出したプレイヤーの一人と言われる[1]。2000年にロックの殿堂入りを果たしている[2]

パーマーは、歴史上最も活躍したスタジオ・ミュージシャンの一人と言われており、リトル・リチャードファッツ・ドミノのほぼ全てのヒット曲を始め、ライチャス・ブラザーズの”You've Lost That Lovin' Feelin'”や無数のテレビや映画のサウンドトラックなど、数千に及ぶレコーディングでプレイしている。ある訃報記事は「彼のプレイした曲のリストは、過去60年間のアメリカのポピュラー音楽の紳士録のようである」と評している[3]
来歴

ニューオーリンズのビジネスの家系に生まれトレメ地区で育ったパーマーは、5歳のときタップ・ダンサーとしてキャリアをスタートさせ、母親と叔母とともに衰退期の黒人ヴォードヴィル・シーンに出演、またアイダ・コックスのダークタウン・スキャンダルズ・レヴューで遠くまでツアーに出かけるようになった。彼の父親は、地元のピアニストでバンドリーダーだったウォルター・ファッツ・ピションだったと言われている[3]

パーマーは12歳になると、アルヴィン・ハウウィーとともにニューオーリンズのリズム・クラブのフロア・ショーのヘッドライナーを務めている[4]

パーマーは第二次世界大戦中、米軍で欧州の劇場に駐留している。彼の伝記には以下の記述がある:[5].mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}殆ど黒人の新兵は、非戦闘軍に配属された。制服を着て作業をしたのだった。「軍は黒人に銃を持たせるのを嫌っていたんです」そうアールは言う。そのため、彼らはシャベルやごみ箱を運ばされていた。アールの仕事は弾薬を積載し取り扱うことで、比較的技術的な内容だったが、その任務は明確だった。それは白人の歩兵に仕えることだったのだ。—Tony Scherman、Backbeat: Earl Palmer's Story (1999), p. 47[6]

戦争が終わると、パーマーはニューオーリンズのグルーンウォルド音楽学校でピアノとパーカッションを学び、ここで譜面を読むことを覚えた。彼は、1940年代後半頃、ドラマーとしてデイヴ・バーソロミューのバンドに加入[3]。パーマーはファッツ・ドミノの"The Fat Man"、"I'm Walkin'"を始めとするヒット曲の数々、プロフェッサー・ロングヘアの"Tipitina"、"Tutti Frutti"などリトル・リチャードの殆どのヒット曲、ロイド・プライスの"Lawdy Miss Clawdy"、スマイリー・ルイスの"I Hear You Knockin'"など、ニューオーリンズで行われたレコーディング・セッションに多く参加したことが知られている。

"The Fat Man"における彼のプレイでは、その後ロックンロールの最も重要な要素となるバックビートが聴かれる。パーマーは語る「あの曲は全体を通して強力な後拍のビートが必要だったのです。ディキシーランド・ジャズでは、強力な後拍のビートが出てくるのは、最後のコーラスでシャウトした後だけでした...ある意味でリズム音楽に対する新しいアプローチだったのです」。音楽にシンコペーションを効かせてダンスしやすくすることを他のミュージシャンに伝えるにあたり「ファンキー」という言葉を使ったのは彼が初めてだったと言われている[3]

パーマーはニューオーリンズを離れ、1957年にハリウッドに移住した。そこでは、当初アラディン・レコードで仕事をしている。彼は間もなく、1962年から1968年頃の間多くのレコーディングを残したセッション・ミュージシャンたちの集団、レッキング・クルーに加わり働くようになった。

ミュージシャンの組合によると、1967年だけで、パーマーは450回ものセッションでプレイしている。

30年以上に渡り、彼は多くの映画やテレビ番組のサウンドトラックでドラムスをプレイした。彼が仕事を共にしたアーティストにはグレン・ヤーブロー、フランク・シナトラフィル・スペクターリッキー・ネルソンボビー・ヴィーレイ・チャールズサム・クックエディ・コクラン、ボビー・デイ、ドン・アンド・デューイ、ジャン&ディーンザ・ビーチ・ボーイズラリー・ウィリアムズ、ジーン・マクダニエルズ、ボビー・ダーリンニール・ヤング、ザ・ペッツ、ザ・バーズ(前身のビーフィーターズ時代)、B・バンブル・アンド・ザ・スティンガーズなどが含まれる。彼はまた、デイヴィッド・アクセルロッド、ディジー・ガレスピー、アール・ボスティック、オンジー・マシューズ、カウント・ベイシーといった人たちとジャズ・セッションでプレイもしており、B.B.キングのブルース・レコーディングにも参加した。

彼は1970年代から1980年代を通じて引く手あまたのドラマーとして活躍を続け、ランディ・ニューマントム・ウェイツボニー・レイットティム・バックリィリトル・フィートエルヴィス・コステロといったアーティストたちのレコーディングでプレイしている[3]

1982年には、パーマーは米国音楽家連盟の労働組合の会計係に選出され、1984年に選挙で敗退するまで務めた。彼は1990年に再び選出されている[5]

1999年には、トニー・シャーマンの執筆した彼の伝記本「Backbeat: Earl Palmer's Story」が出版された[6]

後年、パーマーはロサンゼルスでジャズ・トリオでプレイしている[3]

ニューオーリンズの音楽とそのリズム・アンド・ブルース、ロックンロール、ファンク、ジャズへの影響の歴史に焦点を当てた2005年のドキュメンタリー映画「Make It Funky!」において、パーマーはインタビューに登場し、演奏シーンも見ることができる[7]。この中で彼はゲスト・ヴォーカリストのアイヴァン・ネヴィルとハウス・バンドとともに"Rip It Upを演奏している[8]

パーマーは、長い病気療養を経て2008年9月、カリフォルニア州バニングにて、死去した[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:65 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef