バージニア州アーリントン郡
郡旗郡章
郡のバージニア州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1846年7月9日
郡庁所在地アーリントン
面積
- 総面積
- 陸
- 水
67 km2 (26 mi2)
67 km2 (26 mi2)
0 km2 (0 mi2), 0.35%
人口
- (2020年
アーリントン郡(アーリントンぐん、英: Arlington County)は、アメリカ合衆国バージニア州の郡である。ワシントンD.C.からポトマック川を西に渡った対岸に位置している。人口は23万8643人(2020年)。面積67 km2の非常に小さな郡である。 以前は首都であるコロンビア特別区(現ワシントンD.C.)の一部に含まれていたが、1846年7月9日、連邦議会の議決(1847年発効)によりバージニア州に返還されることとなった。その時から1920年3月16日まではアレクサンドリア郡と呼ばれていたが、州議会の議決によりアーリントン郡へと名称が変更された。 行政上はバージニア州の「郡」として成り立っているが、アメリカ合衆国統計局の統計上は郡全域が国勢調査指定地域(CDP)となっており、隣接するワシントンD.C.及びアレクサンドリアと併せてワシントン首都圏の一つの中心的都市として扱われている。面積は67km2であり、自治権限を持ったアメリカの郡の中では最小である[2]。 アーリントンは、2005年、アメリカ足病治療協会 (American Podiatric Medical Association) によって、アメリカの中で最も歩きやすい街の一つに数えられている[3]。『マネー』誌によれば、2006年においてアーリントンの住民の35.7%が学位を有しており、最も教育の進んだ都市であるとされている。『ビジネスウィーク』誌によれば、アーリントンの住民の多くが連邦政府を含む安定性の高い仕事に就いており、不況下でも最も安全な都市であるとされている[4]。他の五つの北バージニアの郡とともに、2006年においてアメリカで最も世帯収入(中央値)の高い20の郡にランクインしている[5]。 アーリントンには、アーリントン国立墓地、ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港、ペンタゴン(国防総省)、海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)、アメリカ空軍記念碑などがある。 バージニア州の市はすべて郡から独立していることから(町は郡に所属している場合がある)、アーリントン郡を「市(シティ)」と呼ぶのは正確でない。アーリントン郡には、独立した町は存在しない。これは、バージニア州法で、人口密度が1000人/mi2(約386人/km2)を超える郡には新しい自治体を設立することができないとされているためである。郡庁所在地は、アーリントンの国勢調査指定地域であり、これはアーリントン郡の統計境界とも一致する。しかし、郡の裁判所及び多くの政府機関事務所はコートハウス地区に置かれている。 アーリントン郡は、バージニア植民地の時代(1607年-1776年)に数回にわたってイギリスから下付された、「バージニアの北の首」と呼ばれる広大な領域の中にあった(現在も「バージニアの北の首」と呼ばれる小さな地域が残っているが、それと同じではない)。 土地の下付は、多くは有力なイギリス人に対して、政治的な恩恵として、あるいは開発の一環として行われた。下付を受けた者の中で最も有名なのが、第6代フェアファクス・オブ・カメロン卿トマス・フェアファクス
概要
歴史
植民地時代
なお、現在のアーリントン郡の名称は、1920年の改名によるものである。17世紀のアーリントン伯の名前は、そのずっと前にバージニア州東海岸にあったプランテーションに付けられ、更にその名にちなんでポトマック川の別のプランテーションがアーリントンと名付けられた。このポトマック川のプランテーションの大部分が、アメリカ南北戦争を経てアーリントン国立墓地となった。 バージニア植民地時代には、この地域はフェアファックス郡の一部であったが、アメリカ独立後、新しい連邦政府からバージニア州に対し権利が認められた。1791年、連邦議会は合衆国の首都となるべき連邦直轄地の範囲を、一辺10マイル(16.1km)四方の正方形と定めた。これは、合衆国憲法1条8節によって認められた最大限の面積であった。しかし、この境界を定めた法律(1790年合衆国首都設置法に対する改正法)では、ポトマック川のメリーランド州側(東側)以外で公共の建物を建てることを禁じていた[6]。 1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコット
首都への編入とバージニア州への返還
連邦議会は、1801年にコロンビア特別区へ移転した際、コロンビア特別区基本法を制定し、特別区を、(1)ポトマック川東岸のワシントン郡と(2)西岸のアレクサンドリア郡に分けた[9]。アレクサンドリア郡には、当時は大部分田舎であった現在のアーリントン郡と、ポトマック川に面した港町であるアレクサンドリア町(現在のアレクサンドリアの南東部であり、現在「オールドタウン」と呼ばれる)が含まれていた。現在のアーリントン郡の1878年の地図(当時はアレクサンドリア郡)。
アレクサンドリア郡の住民は、連邦の首都が置かれることによって土地が購入され、商業が発展するものと期待していた。ところが、実際にはアレクサンドリア郡は、首都ワシントン市に隣接する港町でありワシントン郡の一部であったジョージタウンと競合する立場に置かれた。
連邦政府がアレクサンドリア郡内に事務所を設置することができなかった上、経済的に重要な意味を持つチェサピーク・オハイオ運河がポトマック川の北側を流れていることもジョージタウンに有利であったことから、アレクサンドリア郡の経済は停滞した。連邦政府によってアレクサンドリア運河が設営されることとなり、ジョージタウンの一部住民はこれに反対したが、結局チェサピーク・オハイオ運河とアレクサンドリア港が結ばれた。また、アレクサンドリア郡の住民は、コロンビア特別区の市民となったことによって連邦議会への代表を有しないことになった。
アレクサンドリア町は、当時、奴隷貿易の港、市場であった。しかし首都では奴隷制度廃止運動が高揚し、アレクサンドリア住民は、連邦政府が奴隷制度を禁止することになれば地域経済が打撃を受けることを恐れた。同時に、バージニア州の中でも奴隷制度廃止運動が巻き起こり、この問題をめぐって州議会は二分された(後に、南北戦争中にバージニア州が奴隷制度を肯定する決断を下したことにより、奴隷制度に反対する郡によってウェストバージニア州が生まれることになった)。奴隷制度賛成派のバージニア州民は、アレクサンドリア郡がバージニア州に返還されれば、州議会で賛成派の議席が二つ増えるであろうと考えた。