アーブロース宣言
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出典検索?: "アーブロース宣言" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年4月)

アーブロース宣言(アーブロースせんげん、: Declaration of Arbroath)は、ローマ教皇ヨハネス22世への書簡文であり、同時にイングランド王国の支配から解放されたスコットランド王国の独立宣言である。第一次スコットランド独立戦争に勝利したスコットランドは、アーブロース寺院で1320年、これを採択して独立し、1328年にはイングランドとの間に和約を成立させた。

宣言はスコットランドが独立国であること、その王はロバート1世であること、そして独立と自由が脅かされたときは団結してこの脅威を除くことを明記している。宣言では王は臣民の支持が必要であり、イングランドに従属的態度をとる王はアーブロース宣言によって排されるとした。これによって国王の統治権が正統性を持つようになった一方、王に権力が集中することもなくなった。アーブロース寺院。1178年ウィリアム1世によって建設された。現在は史跡管理団体ヒストリック・スコットランドが維持管理している
背景

スコットランドでは独立戦争が13世紀末から続いていたが、1314年バノックバーンの戦いでスコットランドが決定的勝利を収め、イングランドの勢力を駆逐しつつあった。しかし王と目されるロバート1世は教皇から破門をうけており、これを解除させる必要に迫られていた。また、ロバート1世はスコットランドを代表する王であるというお墨付きを得ることも欲していた。
宣言の概要

スコットランドの諸侯が、教皇より破門されたロバート1世を支持し、イングランドから独立を勝ちとりつつあることを教皇にアピールし、破門を解いてもらうことを狙った宣言である。さらに、臣下たちはイングランドに従属する王を排除する権利を有していると明言された。

宣言はスコットランドの土地保有者のほとんどが署名し[1]、スコットランド内で意思統一がなされていることを印象づけた。
歴史的意義

アーブロース宣言は、イングランドにおけるマグナ・カルタと比肩されるほどにその歴史的重要性を有し、1320年はスコットランド史において広く記憶される年号となっている。

その意義とは、王権の正統性が確認されたこと、その一方で王権が制限されたこと、そして教皇の破門が解かれてキリスト教世界に本格的に組み入れられたことなどである。また、限定的ながらも人民の権利を明文化したという点で、後世からみれば先駆的な宣言となっただけでなく、アメリカ独立宣言を起草する際にも参考のひとつとされた。
スコットランド国家の独立

スコットランド史において、アーブロース宣言がもたらした意義はきわめて大きい。この宣言によって安定性を欠いていた中世国家が確立し、王の支配権の正統性が確認された。この宣言を遵守する限りにおいて、代々の国王は封建的上位支配権を主張できたし、貴族たちもそれに従った。この宣言の後もイングランドとの戦争は続いたが、スコットランドがまとまったことで軍事力による制圧は事実上不可能となり、以降の争いはもっぱら境界線をめぐるものになった。
王権の制限

一方で、イングランドに従属する王は臣下によって退けられるという条項が盛り込まれ、これが王権を制限する根拠となった。スコットランド王国は封建諸侯が重臣・摂政・宮宰として比較的強い権力を持ち、ときに王と対立することもあった。タニストリーとあわせて、これはスコットランドの集権化を阻む文化を生み出した。このため、スコットランド史は陰謀と暗殺の歴史として描かれることがある。
破門の解除

ロバート1世は第一次スコットランド独立戦争の中で、イングランド派の聖職者を攻撃した廉で破門されていた。スコットランドが国として対外的に認められるためには、破門の解除が必要であった。アーブロース宣言は、あらゆるスコットランド人がロバート1世を支持していることを表明し、教皇に破門の撤回を求めた。ヨハネス22世が独立を承認したのは1322年頃と考えられている。イングランドとも1328年、エディンバラ条約によって和約が成立した。
日本語訳宣言全文

以下に日本語訳全文を記す。これは英訳版からの訳である。「我々が戦うのは、栄光や名誉のためでも、富のためでもなく、ただ自由[2]のためなのだ。この独立のために、高潔な我々は決してあきらめず、そしていかなる犠牲をも怖れない」というくだりは、いまでも多く引用される一節であり、スコットランド人の誇りのひとつにもなっている。

以下の者たちは、もっとも神聖なる父であり、キリストの御意を預言する教父ヨハネス聖下に謹んで宣誓するものである。教父の謙虚なる子ら、すなわちファイフ伯ダンカン、モレイ伯トマス・ラヌールフ、マン島およびアナンデール伯、マーチ伯パトリック・ダンバー、ストラザーン伯マリス、リーヴン伯マルコム、ロス伯ウィリアム、ケイスネスおよびオークニー伯マンガス、サザランド伯ウィリアム、宮宰ウォルターとウィリアム・サウルズ、およびジェームズ・ダグラス卿、ロジャー・モウブレイ、デイヴィッド・ブレキン卿、デイヴィッド・グラハム、イングラム・アムフラヴィル、メインティース伯領護民官ジョン・メインティーンス、アレクサンダー・フレーザー、軍司令官ジルバート・ヘイ、王室事務官ロバート・キース、ヘンリ・シンクレア、ジョン・グラハム、デイヴィッド・リンゼイ、ウィリアム・オリファウント、パトリック・グラハム、ジョン・フェントン、ウィリアム・アバネシー、デイヴィッド・ウィマイズ、ウィリアム・モンテフィックス、ファーガス・アルドロッセン、ユースタス・マクスウェル、ウィリアム・ラムゼイ、ウィリアム・モンテール、アラン・モレイ、ドナルド・キャンベル、ジョン・キャメロン、レジナルド・ルチーン、アレクサンダー・セトゥーン、アンドリュー・レズリー、アレクサンダー・ストラトン、ならびにそのほかの国王の従者たち、自由土地保有者たち、そしてすべてのスコーシアの人民。我々は献身と敬意をもって、教父にくちづけを贈る。

聖なるキリストと教父よ、我々はいにしえの言い伝えから知っている───大スキタイからティレニア海そしてジブラルタルにまで広まった数々の記録によって。スコット人はかつて、いかなる強大な、野蛮な敵にも屈しなかったのだ。歴史家たちが証明するように、祖先たるイスラエルの民が紅海を渡ってから1200年、我々はこの西の果ての地にたどり着き、ピクト人たちを完膚なきまでに叩きのめした。そして北はノース人、東はデーン人、南はアングロ・サクソン人どもが攻め入ってきたが、我らスコットは団結して戦い、みなの尊い献身によって数々の勝利を重ねることができた。スコーシアは、異民族に屈することなく、113代にわたって受け継がれてきた王のもと統治されてきた。

受難と復活をとげた主たるキリストは我々の威光を、なべて天地に行き渡らせ給うたが、我々は貴賎をとわず、かならずしも十分な栄光を勝ち得てきたわけではなかった。そこで主は、他の誰でもない、祝福を受けたペテロの兄弟である聖アンドレをこの地に遣わし給い、とこしえに護ることを願った。

聖なる父らよ、あなたの祖先らが細心の注意で守護と栄光を我々に与え、聖アンドレの特別なはからいで、王国と人民に支持と名誉を残してくれた。その聖恩をもって、我々の王国は自由と平和のもと繁栄してきた。しかしそこに、強力なイングランドの王エドワードがスコーシアの征服を目論んで侵攻してきた。そのとき、我々には王がおらず、裏切りを犯す者も出た。我々は進攻や戦争に慣れておらず、卑劣なるエドワードの表面的な友情の態度に乗せられてしまったのだ。エドワードは虐殺、略奪、放火、教父の幽閉など暴虐の限りをつくし、修道院は焼かれ、修道士たちは殺された。身分や信仰、老若男女をとわず殺戮は繰り返された。かれらの蛮行は、それを目のあたりにした者でなければ、想像することさえできないであろう。

この数えきれない悪逆にも、我々は自由のために、主の庇護をうけて立ち向かった。そして我々は指導者に恵まれた。けっして疲れず、屈しない王、ロバート卿である。敵の手から取り戻されたロバート卿の人民と財産すなわちスコーシアはマクベスのごとく疲弊し、飢餓や労苦にさいなまれたが、人々はすすんでロバート卿を支持してきた。我々は最後まで、みずからの法と慣習および我々すべての同意にのっとり、ロバート卿の王位継承を支持する。神の救いに恵まれたロバート卿よ、法と、我々の自由が守られる限りにおいて、何があろうとも、我々はこの新たなる王に従順たることを誓う。

しかし同時に、もし彼が、自身の始めた独立を放棄し、我々の王国をイングランドやイングランド人に従わしめることがあらば、我々は彼を敵とし、我々の権利を奪う破壊者と見なし、別の王を立てることを厭わない。我々が討ち減らされても、我々とその子孫たちが100人でも残っているかぎり、決してイングランドの法に従うことはない。我々が戦うのは、栄光や名誉のためでも、富のためでもなく、ただ自由のためなのだ。この独立のために、高潔な我々は決してあきらめず、そしていかなる犠牲をも怖れない。

ゆえに我々は、真摯なる祈りと哀願の心をもって教皇聖下に嘆願する。神の代理たる教皇聖下はお認めくださるはずである───ユダヤ人、ギリシア人、そしてスコット人やイングランド人は、どの民族が優れてどの民族がおとることはないと。しかるに、聖下のいつわりなき心と善性で、スコーシアの地で起こったことをお考えになれば、聖下は、我々と神の教会にふりかかった、イングランド人による不自由と艱難を目の当たりになさることだろう。

聖下におかれては、七王国をきり従えたイングランドの王に対して、すでに得た地で満足すべきであり、スコーシアから退いて和平をもたらすよう注意と警告をお与えくだされば幸いである。


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