アーネスト・ローレンス
[Wikipedia|▼Menu]

Ernest Lawrence
アーネスト・ローレンス

生誕Ernest Orlando Lawrence
(1901-08-08) 1901年8月8日
アメリカ合衆国 サウスダコタ州カントン
死没1958年8月27日(1958-08-27)(57歳)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州パロアルト
国籍 アメリカ合衆国
研究機関カリフォルニア大学バークレー校
イェール大学
出身校ミネソタ大学ツインシティー校
イェール大学
論文The Photoelectric Effect in Potassium Vapor as a Function of the Frequency of the Light (1924)
博士課程
指導学生エドウィン・マクミラン
呉健雄
主な業績サイクロトロン
主な受賞歴ノーベル物理学賞(1939)
署名
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ノーベル賞受賞者
受賞年:1939年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:サイクロトロンの開発および人工放射性元素の研究

アーネスト・オーランド・ローレンス(: Ernest Orlando Lawrence、1901年8月8日 - 1958年8月27日)は、アメリカ合衆国物理学者カリフォルニア大学準教授(1928年 - 1930年)、のち教授(1930年 - 1958年)。またバークレー放射線研究所の設立者兼所長(1936年 - 1958年)であり、ローレンス・リバモア研究所(1952年 -)の創立者でもある。
生涯
生い立ち

アーネスト・オーランド・ローレンスは1901年8月8日、サウスダコタ州リンカーン郡郡庁所在地カントン(Canton)でカール・グスタヴス・ローレンス(Carl Gustavus Lawrence)とその妻グンダ・ローレンス(Gunda Lawrence、旧姓ジャコブソン; Jacobson)の長男として生まれた。両親はともにノルウェー系で、父親はここで教育長をしていた。

ローレンスの少年時の友人に、同じくノルウェー系で、後に物理学者となって近接信管を開発したマール・チューヴ(Merle Tuve)がおり、ローレンスとチューヴは二人で簡単な無線装置を作ったりしていたという。

カントン高等学校を卒業したのち、1918年にローレンスは医学を志してセントオラフ大学に入学した。翌年にサウスダコタ大学に移って医学の勉強を続けたが、ここの電気工学部の教授であったルイス・エイクリー(Dean Lewis E. Akeley)の影響で進路を変更した。ローレンスは1922年、優秀な成績で化学の学位を取得した。その後ミネソタ大学の修士課程に進み、チューヴとともにW・F・G・スワン(William Francis Gray Swann)の元で学んだ。

ローレンスは1年で物理学の修士号を取得したがその後も研究室に留まり、スワンが1923年シカゴ大学に、1924年イェール大学に移ったときも行動を共にした。そして1925年光電効果に関する論文でイェール大学から物理学の博士号を取得した。
研究 1933年の第7回ソルベー会議で。後列(立席者)の右から2人目がローレンス

全米科学アカデミーによって第一次世界大戦中に設立された全米研究会議(The National Research Council)は、ロックフェラー財団の寄付をもとに1919年から博士号取得者に対する給費研究員(フェロー)制度を創設していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef