アーネスト・タブ
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アーネスト・タブ
Ernest Tubb

基本情報
出生名アーネスト・デイル・タブ
Ernest Dale Tubb
別名テキサス・トラバドー (テキサスの吟遊詩人)
The Texas Troubadour
生誕1914年2月9日
アメリカ合衆国テキサス州クリスプ
死没1984年9月6日(1984-09-06)(70歳)
アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル
ジャンルカントリーホンキートンク
職業シンガーソングライターバンドマスター
担当楽器ギター
活動期間1936年?1982年
レーベルブルーバード、デッカ、ファースト・ジェネレーション

アーネスト・デイル・タブ(Ernest Dale Tubb 1914年2月9日?1984年9月6日、ニックネーム: テキサス・トラバドー (テキサスの吟遊詩人 Texas Troubadour )) は、アメリカ合衆国の歌手、作曲家、カントリー・ミュージックのパイオニアの1人。最もヒットした曲『Walking the Floor Over You 』(1941年)は、ホンキートンクの人気の上昇に貢献した[1]。1948年、のちにエルヴィス・プレスリーなどがカバーしたヒット曲『Blue Christmas 』を最初にレコーディングした。他のヒット曲で甥のクエナ・タルマッジ・タブ(ビリー・タルマッジ)作曲の『Waltz Across Texas 』(1965年)はリクエストの多かった曲の1つで、テキサス州でのワルツのレッスンによく使用されている[2]。1960年代初頭、駆け出しのロレッタ・リンと『Sweet Thang 』などをデュエットしてヒットした。1965年、カントリー・ミュージック殿堂に殿堂入りした。
目次

1 経歴

1.1 初期

1.2 プロとしての活動

1.3 後年

1.4 レガシー


2 ディスコグラフィ

3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク

経歴
初期

テキサス州エリス郡クリスプ(現在ゴーストタウンとなっている)近郊の綿花農場で生まれた。父親は小作人で、タブは幼い頃からテキサス州内の農場を渡り歩いた。ジミー・ロジャーズに影響を受け、余暇のほとんどを歌、ヨーデル、ギターの練習に費やした。19歳の頃、テキサス州サンアントニオのラジオ局KONO-AMで歌手としての仕事を得た。給料は低く、公共事業促進局での溝掘りの仕事の他、薬局店員の職も得た。1939年、テキサス州サンアンジェロに転居し、ラジオ局KGKL-AMで午後の15分間の生番組に採用された。この頃、生活のためにビール配達のトラック運転手も務め、第二次世界大戦中、『Beautiful San Angelo 』を作曲およびレコーディングした[3]
プロとしての活動

1936年、1933年に亡くなったジミー・ロジャーズの未亡人に連絡を取り、彼のサイン入り写真をお願いした。彼らの友情は続き、彼女は彼をRCAレコードに紹介した。彼の最初の2曲は成功しなかった。1939年に受けた扁桃摘出術が歌唱に影響し、作曲家となった。1940年、デッカ・レコードに移籍し、再度歌に挑戦し、デッカでの6枚目のシングル『Walking the Floor Over You 』でスターダムに上った[4] 1947年、カーネギー・ホールにて(後列左から3人目)

1943年1月、テネシー州ナッシュビルから全米放送される『グランド・オール・オープリー』に自分のバンドであるテキサス・トラバドーズと共に出演した[5]。最初のバンド・メンバーはアラバマ州ガズデンで活動していたヴァーノン"トビー"リース、チェスター・スタダード、レイ"キーモ"ヘッドであった。40年間、『オープリー』のレギュラーであり続け、土曜夜のこの番組の後、自身の番組『ミッドナイト・ジャンボリー』で司会を務めた。1947年9月、『グランド・オール・オープリー』がニューヨークカーネギー・ホールで初めて収録された際のメイン出演者となった。

タブはいつもナッシュビルの最高の音楽家たちと共に演奏していた。トラバドーズの最初のギター奏者ジミー・ショートはタブからそのシングル・ストリング・ギター・ピッキングで認められていた。1943年から1948年頃のタブの数々の曲でショートのクリーンでクリアなリフが特徴とされてきた。他にバンドとしてのツアー公演、レコーディング双方で知られていたのはスティール・ギター奏者のジェリー・バードや、1947年にタブによりショートにリード・ギター奏者として置き換えられるトミーバターボールペイジであった。1949年、トラバドーズにビリー・バードが参加し、間奏にジャズ風のリフを導入し、特に彼のギター・ソロの最後の4音のリフはタブの曲になくてはならないものとなった。またジェリー・バードとは血縁はないが、1959年までジャズ・ミュージシャンのバードが在籍していた[6]

1950年代から、彼のプロデューサーであるオウエン・ブラッドリーはタブの曲の多くでピアノを弾いていたが、タブは当時流行っていたホンキートンクのピアノ奏者ムーン・マリカンのような演奏を求めていたため、クラシック奏法を学んできたブラッドリーにとってホンキートンク奏法は難しく、タブはブラッドリーの演奏を「ムーンの半分の出来」としか評価しなかった。間奏のピアノ・ソロの際、タブはブラッドリーを「ハーフ・ムーン・ブラッドリー」と紹介していた。

1949年、ブギウギで有名なアンドリューズ・シスターズはデッカでエディ・アーノルドの『Don't Rob Another Man's Castle 』やウエスタン・スウィング風の『I'm Bitin' My Fingernails and Thinking of You 』をカバーした際、タブは彼女たちのカントリーへのクロスオーバーの助力した。タブは彼女たちの大ヒットに印象を受け、またタブは1947年のフォークのレジェンドであるバール・アイヴスとの彼女たちの『The Blue Tail Fly (Jimmy Crack Corn) 』が『ビルボード』誌のトップ10に入っていたことを覚えており[7]、彼女たちをカントリーでどうしても成功させたかった。 彼女らに気に入ってもらえるように、彼はフィンガーネイルのアップビートのサウンドを用意した。デッカの録音技術者は音のバランスを調節するため、テキサス・トラバドーの身長に合わせて彼女たちに1つのマイクにつき1箱の木箱に立たせた。彼女らはタブのヴォーカル・スタイルに慣れておらず、メンバーのマクシーンは「タブは私が聴いたことのないような歌い方で歌った。彼はメロディを歌ったのだけれどもタイミングが違った。8小節ずつ歌っていた私たちの歌い方と違った。彼はどんな曲でも8小節、10小節、11小節と歌って突然止まる。だから私たちは彼が止まったら歌い始めるようにしたら、これまでなかった75万枚を売り上げた」と語った[7]

タブはもう良い声は出せず、自身が歌でレコーディングすることはなくなっていた。インタビューにおいて彼はバーにいる男性の95%はジュークボックスで彼の曲を聴きたがり、そのガールフレンドに「自分は彼より歌がうまい」と言い、そして実際そうだと語った。事実、彼はいくつかのレコーディングでいくつかの音符を見逃していた。1949年、タブが『You Don't Have to Be a Baby to Cry 』をレコーディングした時、誰かが「低い音が出せることを願っているんだろう」と語り、レコーディング・ブースにいた、当時デュエット・パートナーであったレッド・フォリーが「アーネストが低い音が出せることを願っているんだろう」と答えた。2人は共同で7枚のアルバムを出版し、長年、2人で不仲を装ったラジオ放送を行ない、またABCのフォリーの番組『Ozark Jubilee 』にタブが出演することもあった。

1957年、ナッシュビルにある生命保険会社ナショナル・ライフのビルのロビーで、音楽プロデューサーのジム・デニーをa .357 マグナムで撃とうとした。タブは相手を間違えたが、誰にもあたらなかった。タブは公衆での酩酊で逮捕された[8]

1960年代、タブはカントリー史上最高のバンドの1つを率いていた。バンドの番組『Hee Haw 』で巧妙なギター演奏を見せていたレオン・ローズ。1975年秋から1960年代初頭までタブと演奏していたペダル・スティール・ギターの名手バディ・エモンズ。


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