アーネスト・サトウ
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この項目では、幕末から明治初期にかけてのイギリス人外交官について説明しています。20世紀後半の日本人写真家については「アーネスト・サトウ (写真家)」をご覧ください。

アーネスト・サトウ
Ernest Satow
アーネスト・サトウ(1869年、パリにて)
アーネスト・サトウ(1903年、自伝書)

第6代駐日イギリス公使
任期
1895年 ? 1900年
前任者パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ
後任者クロード・マクドナルド
第14代駐イギリス公使
任期
1900年 ? 1906年
前任者クロード・マクドナルド
後任者ジョン・ジョーダン

個人情報
生誕 (1843-06-30) 1843年6月30日
イギリス
イングランドロンドン、クラプトン(en)
死没 (1929-08-26) 1929年8月26日(86歳没)
イギリス
イングランドデヴォン州、オタリー・セント・メアリー
国籍 イギリス
非婚配偶者武田兼
子供武田久吉
出身校ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
職業外交官通訳

サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日[1])は、イギリス外交官。イギリス公使館通訳、駐日公使、駐公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。雅号に薩道静山[2]。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者武田久吉は次男。
生涯
日本着任まで

1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓、メイソン)の三男としてロンドン北部クラプトン(en, 旧ミドルセックス州 現在のハックニー区)で生まれた。サトウ家は非国教徒ルーテル派の宗教心篤い家柄であった。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったが、階級差別の激しい当時、中産階級出身の非国教徒が学位を取れる保証がなかったため[3]プロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学、1859年首席で卒業、宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学、ローレンス・オリファント卿著・『エルギン卿遣日使節録』[4] を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席合格、年俸 200ポンド)として入省、駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により清の北京で漢字学習に従事した。
第一次日本駐在
着任「敷和」と書かれたサトウ直筆(署名は「静山」)の揮毫

1862年9月8日文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。当初、代理公使のジョン・ニール[注釈 1] がサトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。サトウが来日した直後の9月14日8月21日)、生麦事件が勃発した。生麦事件およびその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題のため、ニールは幕府との交渉にあたったが、サトウもこれに加わった。但し、当時のサトウの日本語力では交渉の通訳はできず、幕府およびイギリス公使館がそれぞれのオランダ語通訳を介しての交渉であった。サトウが初めて「日本語通訳」としての仕事をしたのは、1863年6月24日(文久3年5月9日)付けの小笠原長行のニールへの手紙(5月10日をもって攘夷を行うと、将軍・徳川家茂孝明天皇に約束したことを知らせる内容)を翻訳したことであった。

この頃、六甲山を訪れているが、その際に鋲を打った登山靴を持ち込んでいて、これが日本にはじめて持ち込まれた登山靴と言われている。
薩英戦争前後

1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会ったが(その後の略奪にも加わっている)、その際に五代友厚・松木弘安(寺島宗則)が捕虜となっている。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃する。

1864年元治元年)、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されたので、引き続き日本に留まることを決意した。オールコックはサトウを事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなった[注釈 2]。また、ウィリスと同居し親交を深めた。

オールコックは日本国内の攘夷的傾向(前年の長州藩による外国船砲撃や幕府による横浜鎖港の要求など)を軍事力を用いてでも打破しようと考えていたが、7月に長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)と志道聞多(井上馨)がヨーロッパ留学から急遽帰国してきたため、サトウは彼らを長州まで送り届けた。結局伊藤らは藩主毛利敬親を説得できなかったが、このときからサトウと伊藤の文通が始まっている。下関戦争では四国艦隊総司令官となったキューパー提督付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による前田村砲台の破壊に同行し、長州藩との講和交渉では宍戸刑馬と変名していた高杉晋作を相手に通訳を務めた(伊藤・井上も通訳として臨席)[注釈 3]
通訳官に

1865年慶応元年)4月、通訳官に昇進。このころから伊藤や井上馨との文通が頻繁になる。


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