アーネスト・キング
[Wikipedia|▼Menu]

アーネスト・ジョゼフ・キング
Ernest Joseph King

渾名アーニー
レイ
ニトログリセリン
アーニー小父さん
生誕1878年11月23日
アメリカ合衆国 オハイオ州 ロレイン
死没 (1956-06-25) 1956年6月25日(77歳没)
アメリカ合衆国 メイン州 キタリー
所属組織 アメリカ海軍
軍歴1901 - 1945
最終階級海軍元帥
指揮大西洋艦隊司令長官
合衆国艦隊司令長官
海軍作戦部長
戦闘米西戦争
ベラクルス占領
第一次世界大戦
第二次世界大戦
除隊後海軍歴史協会理事長
テンプレートを表示

アーネスト・ジョゼフ・キング(Ernest Joseph King、1878年11月23日 - 1956年6月25日)は、アメリカ合衆国海軍軍人。最終階級は海軍元帥

オハイオ州ロレイン生まれ。第二次世界大戦中は海軍制服軍人のトップである合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長(略称COMINCH-CNO)として戦略指導を行い、太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官(略称CINCPAC-CINCPOA)であるチェスター・ニミッツの上官だった。
生涯
生い立ち?海軍入隊

キングは1878年11月23日アメリカ合衆国オハイオ州ロレインで、父ジェームズ・クライズデール・キング(James Clydesdale King)と母エリザベス・ケーム・キング(Elizabath Keam King)の間に生まれた。父はアイルランド系移民でエリー湖の水夫と橋梁工事員を経て鉄道修理工場員、母方の祖父は英国プリマスの船大工から渡米して石油精製会社に勤務していた。高校に入るのが精一杯の家庭であったため、1897年にアナポリス海軍兵学校へ入校。在学中に起きた米西戦争に志願して巡洋艦サンフランシスコに乗り組んだ。

1901年に卒業、卒業席次は67人中4番。少尉候補生となると、戦艦イリノイ乗組みとなるが程なく副長と衝突し、アジア艦隊所属の巡洋艦シンシナティに転属となる。シンシナティの第1分隊長として初めて部下の水兵40人を持ったキング少尉候補生(在職中に少尉)は「厳しいが公正」をモットーとし、セオドア・ルーズベルト大統領の提唱で始まった海軍の第1回射撃コンテストで分隊を優勝させた。シンシナティ乗組員の水兵300人の約4分の1が外国人で、特に古参の下士官に多く、これは当時のアメリカ海軍の平均的数字だった。水兵は悪い食事と住環境、自由の制限を理由に年14%の割合で逃亡し、上陸すれば逃亡するか飲んだくれるトラブルメーカーだった。キングが上海で分隊の水兵たちの記念写真撮影をアレンジしたとき、キングは水兵たちにせがまれて一緒に写真に写っている。キングが大西洋艦隊司令長官(Commander in Chief, United States Atlantic Fleet: 略称CINCLANT)となったとき、第1分隊の元水兵の多くが祝い状を送った[1]。戦艦ニューハンプシャー機関長(大尉)時代には、海軍の機関部門のコンテストで優勝しそうになったが、戦艦2隻の故障で海軍省がコンテストを中止した[2]
日本体験

児島襄の著書によると、シンシナティが浦賀に入港した折、キングは鎌倉大仏見物のために鎌倉に向かった。しかし見物の最中でスリに遭い、財布を盗まれた。鎌倉駅に到着してキングはスリにあったことに気づいた。キングは駅員に事情と身分を話し、後払いで横須賀行きの切符を購入しようとしたが、駅員はあくまで現金払いを要求した。この時の様子をキングは「彼は、ひどく疑わしそうだった。あるいは外国人は嘘つきだという信仰の持ち主だったのかも知れない。とにかく、現金がなければ切符は売れない、と繰り返し、結局本官はオーバーをぬぎ、それを抵当にして横須賀までの三等切符をもらった」と語っている。一週間後に現金を渡してオーバーを引き取ったが、「ひどく不愉快だったので、料金だけをはらい、チップは1セントも出さなかった」[3]。この出来事と日露戦争の勝利の影響で白人に対して傲慢な態度を取る日本人に悪印象を抱く。
戦間期

第一次世界大戦後、潜水艦基地司令(大佐)時代の1925年、衝突事故で沈没した潜水艦S-51引き上げ作業指揮を命じられた。水深約40mまで潜れる潜水士は海軍でも少なく、最終段階で潜水士長が「これ以上潜水士たちの安全の責任を負えない」と作業継続を拒否したほどだったが、他の潜水士たちはキングの作業継続の主張に同意してやり遂げ、キングは海軍殊勲章(Navy Distinguished Service Medal)を受章した。水上機母艦ライト艦長時代の1928年には、別の衝突事故で沈没した潜水艦S-4引き上げ指揮を命じられて成功し、2つ目の海軍殊勲章を受章した。S-4が沈んだのは水深約31mで港にも比較的近いなどS-51よりは条件が良く、経験者や道具が揃っていたとはいえ、命令で潜らせることができる深さではなかった[4]

48歳でパイロットの資格を取り、航空畑に入って空母レキシントン艦長となる。キングがレキシントン艦長に就任したとき、アメリカ海軍は空母の運用方法を模索中で、乗員数も職種も多い「自由放任」の「たるんだ艦」とみなされていたが、キング艦長の下でレキシントンの士気は非常に向上した。キング艦長は艦内法廷で水兵に誠実に接し、心を動かされた水兵はしばしば、分隊士官が隠したがる秘密を打ち明けた。部下の士官は全員、自分の考課表を見てキング艦長と話し合い、自分がどこにいるかを知ることができた。キングは艦上では厳格だったが、上陸すると兵士の一人となり、酔った部下の暴言にも寛容で「アーニー小父さん」の渾名が付いた。キングが艦長を離任する際、乗組員たちは盛大な送別パーティーを開き、キングは涙ぐんだ。トーマス・B・ビュエルがキングの正伝を執筆する際、レキシントン元乗組員の多くがキングについてビュエルに語りたがったという[5]。なお後にSF作家となるロバート・A・ハインラインはこの時期(1931年から3年間)にレキシントンで勤務していたため、後にキングについて多数の軍事史家からインタビューを受けている。

レキシントンでの勤務後は戦略を学ぶため海軍大学校高級課程へ進んだが、この時対日戦略を検討する課題が出された。キングはレポートで

「敵"オレンジ(日本)"は、我々を不利な対外戦にひきずりこんで打撃を与えようとするだろう。そのためには、"オレンジ"はフィリピン、さらにハワイを攻撃する可能性もあり、我々は"オレンジ"との戦いでは、まずきわめて不利な"手段と方法"しか与えられない戦争に巻き込まれることを予期せねばならない」「カマクラの体験は、私に日本人の二つの特性を教えてくれた。ひとつは、財布をうばうのに暴力よりはスキをねらう技術を重視するということであり、もうひとつは、駅員の態度が象徴している如く、相手の不利に容赦しないということだ。この二つの特性が軍事面に発揮されれば、日本の戦争のやり方が、奇襲とあらゆる方向への前進基地推進を基本にすることは、容易に想像できるはずだ」

と自身の体験から日本の奇襲戦略を予測している[6]

1933年、少将に昇進して海軍省航空局長(Chief of the Bureau of Aeronautics)に就任。1938年、戦闘部隊航空群司令官(Commander, Aircraft, Battle Force: 略称COMAIRBAT)、中将。1939年には少将に戻り将官会議(General Board)のメンバーとなる。平時であれば退役を待つだけの閑職であったが、チャールズ・エジソン海軍長官の合衆国艦隊観閲の随員となった際、艦艇の対空砲の対策を命じられ、通常3年かかる仕事をわずか3ヶ月で終わらせた事からカール・ヴィンソン下院議員の目に止まる。1940年7月に両洋艦隊法が成立しするとフランクリン・D・ルーズベルト大統領の指名をうけ哨戒部隊司令官(Commander, Patrol Force: 略称COMPATFOR)に就任。1941年2月にフランク・ノックス 海軍長官の一般命令第143号「合衆国海軍部隊の組織」[7]で哨戒部隊が大西洋艦隊に昇格したことに伴いCINCLANTとなり、大将に昇進した。
第二次世界大戦

真珠湾攻撃が発生した際、キングは報告を行った副官の前で「それだ、ワシにはわかっていた」と叫んだという[8]

真珠湾の被害視察から戻ったノックス海軍長官は15日夜、ルーズベルト大統領にCINCPACハズバンド・キンメル大将解任と、3人の地域別艦隊司令長官の上に立つ職として、2月に一般命令第143号で常設職としては廃止したばかりの合衆国艦隊司令長官(当時の略称はCINCUS)復活を提言し同意を得た。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef