アート映画
[Wikipedia|▼Menu]
カール・テオドア・ドライヤー(写真:1965年撮影)は1928年に『裁かるるジャンヌ』を監督した。

アート映画(英語: Art film)とは、一般的に、芸術性が高く、大衆市場よりもニッチ市場向けに作られた自主制作映画のことである[1]。「本格的かつ芸術的な作品で、しばしば実験的な要素が入ることを意図していて、幅広い人気を集めることは念頭に置いておらず[2]」、「主に商業的な利益のためではなく美的感覚を追究するという理由で作られ[3]」、そして「 型にはまらない、あるいは非常に象徴的な内容」を含んでいる[4]

映画評論家や映画学者たちは、概ねアート映画は「主流なハリウッド映画との違いを示す形式ばった特性」をもつものとして定義している[5]。これらの特性にはとりわけ、わかりやすい、目的がはっきりした物語とは対照的な、社会派リアリズムの感覚や監督の作家性に基づいた表現力の豊かさの強調、そして思想、夢、または登場人物の動機に焦点を合わせている部分を含むことができる。映画学者のデイヴィッド・ボードウェルは、アート映画を「特有の表現様式を有した映画ジャンルである」と説明している[6]

アート映画は、より直線的な物語とエンターテインメント性に寄せて作られた主流な大ヒット作品とははっきりと一線を画している。映画評論家ロジャー・イーバートは、批評家に絶賛された映画である『恋する惑星』を「映画について知っているから」こそ楽しめる「大いに知的な体験」と呼んでいる[7]
位置づけ

映画研究者であるデイヴィッド・ボードウェルは、1979年の論文"The Art Cinema as a Mode of Film Practice"で、「アート映画」という語を学術的に定義し、アート映画を古典的なハリウッド映画界で作られていたメインストリーム映画と対置した。メインストリームのハリウッド式映画は、一連の「空間や時間の中で因果関係を持って起こる関連した出来事」へと映画を整理してくれるような明確なナラティヴの形式を用いており、あらゆる場面がゴールに向かって進む。メインストリーム映画のプロットは明確に定まった主人公が進めていくものであり、はっきりとした登場人物たちが肉付けを行い、「問いに答えがついてくる論理、問題解決手順、締めのあるプロット構造」により強化されている。そのためメインストリーム映画は早いペース、観客の感情を適切に操作する音楽サウンドトラック、緊密でよどみのない編集によってまとめられている[8]

対照的に、ボードウェルによると、「アート映画はリアリズムと作家的表現の豊かさという2つの原理によってナラティヴを動かしている」。典型的なアート映画は「原因と結果の因果が緩い」よりエピソード的なナラティヴ構造を扱っているという点で、メインストリームの「古典的な」映画作りの規範から逸脱している[8]

メインストリーム映画は道徳的ジレンマアイデンティティの危機を扱うこともあるが、こうした問題はふつう、映画の最後までに解決される。アート映画では、ジレンマを深く考える形で探求・研究するが、映画の最後にはっきりした解決がないこともよくある[9]

アート映画において、物語はしばしば長い会話を通して行われる登場人物の展開や考えの探求に対して二次的な役割しか果たさない。アート映画に物語があれば、ふつうは緩やかに作られているか曖昧なエピソードのゆらゆらとしたつながりになっている。映画内には説明されていない空所があったり、意図的にぼかされている筋道があったり、前の場面に関連づけられていない異質な一連の場面があったりして、見ている者は主観的に映画のメッセージを解釈せねばならない。アート映画にはしばしば「独特なヴィジュアルスタイルの痕跡」と監督による作家性が出たアプローチが見受けられる[10]

ボードウェルによると「アート映画自身がジャンルであり、それじたいの明瞭なコンヴェンションを持っている」[6]。映画理論家であるロバート・スタムも「アート映画」は映画ジャンルであると主張している。それによると、映画ジャンルが予算(ブロックバスター映画B級映画か)や出演スター(アダム・サンドラーの映画)などの側面に基づいて分類されるのと同様のやり方で、芸術的ステータスに基づいてある映画がアート映画だと考えることができる[11]

ある映画がメインストリーム映画なのかどうかについて、批評家の意見が一致しないこともある。たとえばガス・ヴァン・サント監督の『マイ・プライベート・アイダホ』(1991) は「高い芸術的価値」を有する「映画的実験の鍛錬[12]」と見なされた一方で、『ワシントン・ポスト』はこの作品を曖昧なメインストリーム映画であると考えた[13]
歴史
先例: 1910年代?1920年代『イントレランス』のポスター。

アート映画の先駆けには、イタリアの無声映画であるL’Inferno (1911) やD・W・グリフィスの『イントレランス』'(1916)、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(1928)、そして『戦艦ポチョムキン』 (1925) をはじめとして、数十年にわたりヨーロッパの映画運動の発展に影響を与えたロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの作品群が含まれている[14][15][16]

アート映画は、ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリによる『アンダルシアの犬』(1928) や『黄金時代』(1930) を産み出したスペインのアヴァンギャルドや、『詩人の血』(1930) を撮ったジャン・コクトーなどからも影響を受けている。イングランドでは、アルフレッド・ヒッチコックとアイバー・モンタギューが映画協会を作り、「芸術的な業績」と考える映画を輸入したが、「弁証法的なモンターニュのソビエト映画やドイツの映画会社ウーファ表現主義映画」のようなものが主であった[14]アメリカの写真家兼映画監督のマン・レイ(写真:1934年撮影)は、「純粋映画」運動のダダイストのひとりであり、そしてその運動はアート映画の発展に影響を与えた。

純粋映画(仏:Cinema Pur)は1920年代から1930年代におけるフランスの前衛映画運動であり、アート映画というアイデアの発展に影響を与えた。純粋映画運動は、ハンス・リヒターヴァルター・ルットマン、そしてヴィキング・エッゲリングのようなドイツの「絶対」映画作家に影響を受けている。リヒターは、自分の1921年の作品である『リズム21』(英:Rhythmus 21)がこれまで作られてきた映画の中で最初の絶対映画だと誤って主張した。実際には、1920年にLichtspiel Opus 1を制作した仲間のドイツ人芸術家ヴァルター・ルットマンはもちろん、(『未来派映画宣言』で報告されたように)1911年から1912年の間に映画を作っていた、イタリアの未来派芸術家のブルーノ・コラとアルナルド・ジナにも先を越されていた[17]
1930年代?1940年代

ジャン・ルノワールの映画『ゲームの規則』(1939) は第二次世界大戦前の時代のフランスの上流社会を辛辣かつ悲劇的に諷刺した風習喜劇を作ることにより、ジャンルの習慣を超越した作品である。Sight & Soundで行われた批評家の投票では、『めまい』、『市民ケーン』、『東京物語』の次、史上4番目に偉大な映画としてランクインした[18]

1930年代から1940年代において、ハリウッド映画は、ジョン・フォードの『男の敵』(1935) や『果てなき航路』(1940、ユージン・オニール原作) のような芸術的野望を抱く文学作品の翻案と、ギャングが出てくるスリラー映画のような儲かる「ポピュラー映画」とに分けられる。

1940年代にはイタリアでネオレアリズモが興隆した。『無防備都市』(1945)、『戦火のかなた』(1946)、そして『自転車泥棒』(1948) といった1940年中ごろから終わりのイタリアのネオレアリズモ映画は、別の「意識的なアート映画運動」と考えることができるとウィリアム・シスカは主張している[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef