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アーティ・ショウ
Artie Shaw
演奏中のアーティ・ショウ(1940年)
基本情報
出生名Arthur Jacob Arshawsky
生誕1910年5月23日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク市
死没 (2004-12-30) 2004年12月30日(94歳没)
ジャンルスウィング・ジャズ、ジャズ
職業ミュージシャン、バンドリーダー、作曲家、俳優
担当楽器クラリネット、サクソフォーン
活動期間1925年 - 1954年
アーティ・ショウ(Artie Shaw、1910年5月23日 - 2004年12月30日)は、アメリカ・ニューヨーク出身のジャズ・クラリネット奏者。作曲家としても知られ、自らのバンドを率いた。また、さらにフィクションおよびノンフィクションの著述家としても知られる。
「ジャズ界における最も素晴らしいクラリネット奏者」の一人と広く見なされ、アメリカの1930?1940年代のポピュラーなビッグバンドのリーダーとして君臨した。1938年、コール・ポーター作曲の「ビギン・ザ・ビギン」を編曲、RCAレコードからのリリース盤は大いに成功したシングルとして、この時代を代表する録音であった。
絶えず音楽活動を続けるショウは、クラシックとジャズとを融合しようする「サード・ストリーム(第三の潮流)」とよばれる音楽手法を早くから試みた実践者である。また1954年、45歳で音楽から引退するまで、ビバップに影響された少人数編成によるいくつかのセッションを録音した。 (en:Artie Shaw
来歴・音楽活動
アーティ・ショウ(本名:アーサー・ヤコブ・アーショウスキー)はニューヨークに生まれ、コネチカット州ニューヘイブンで育った。本人の自叙伝によると、この地域の反ユダヤ主義によって自身の自然な内省が深められたという。
13歳でサクソフォーンを習い始め、16歳にはクラリネットに転向し、バンドの巡業旅行について行くために家を出た。1930年代のはじめ20歳になる頃には、ニューヨークに戻りセッション・ミュージシャンとなる。1925年から1936年の10年余、ジョニー・キャバレロやオースティン・ワイルほか多くのバンドやオーケストラと演奏したが、1929年から翌年にかけてのアーヴィング・アーロンズ・コマンダーとの協演においては、後になって彼が編曲を行う際に組み込もうとしたシンフォニック・ミュージック(交響的な音楽)に出会った。
1935年(25歳)、ニューヨークのインペリアル・シアターのスウィング・コンサートにおける「B-フラットの間奏曲 (Interlude in B-flat)」で初めての大きな称賛を受ける。この曲では彼が後方に下がり、リズム・セクションと弦楽四重奏だけを前面に押し出すというような、のちに「サード・ストリーム」と呼ばれるアレンジメント(編曲手法)を最も早く取り入れたように、当時においては画期的な演奏スタイルを試みて、ビッグバンドの操り方に変革をもたらした。そして、スウィング全盛の時代を通じて、「ビギン・ザ・ビギン」「スターダスト」(トランペット・ソロはビリー・バターフィールド)、「バック・ベイ・シャッフル (Back Bay Shuffle)」「ムーングロウ (Moonglow)」「ロザリー (Rosalie)」「フレネシ (Frenesi)」などのヒットを飛ばし、彼のバンドは大衆的な支持を得た。
1938年には、ドラムのバディ・リッチを加えて、またビリー・ホリデイをバンドのフルタイム専属歌手に据え、黒人女性ボーカリストを採用した最初の白人バンドリーダーとして、まだ黒人隔離政策の残る南部諸州へのツアーを行った。しかし、「エニィ・オールド・タイム (Any Old Time)」を録音の後、南部の聴衆からの反発、そしてもっと「主流の」歌手をという音楽会社の重役たちの欲求を受けて、彼女はバンドを去ることになる。
バンドは大いに成功し、ショウの演奏は最終的にはベニー・グッドマン、あるいはデューク・エリントンのバンドで長くクラリネットを吹いたバーニー・ビガードのような一流プレイヤーとして評価され認められるようになった。「スウィングの王者」というグッドマンの称号に対し、ファンたちはショウを「クラリネットの王者」と名づけたが、ショウはこの呼び方は逆だと感じ「グッドマンはクラリネットを演奏するが、私は音楽を演奏するのだ」といった。同年、『ダウンビート』誌の読者たちは一致して評価し、アーティ・ショウを「スウィングの王者」とした。