第8代クイーンズベリー侯爵アーチボルド・ウィリアム・ダグラス(英語: Archibald William Douglas, 8th Marquess of Queensberry PC、1818年4月18日 ? 1858年8月6日)は、イギリスの貴族、政治家。ピール派に属し[1]、1853年から1856年まで王室監査官
(英語版)を務めた[2]。第7代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスと妻サラ(Sarah、旧姓ダグラス(Douglas)、1864年11月13日没、ジェームズ・ショルト・ダグラスの娘)の息子として、1818年4月18日に生まれた[2]。イートン・カレッジで教育を受けた[1]。
1837年12月26日、エンサイン
(英語版)(歩兵少尉)としての辞令を購入して、第92歩兵連隊(英語版)に配属された[3]。1838年7月27日、コルネット(英語版)(騎兵少尉)としての辞令を購入して、ライフガーズ第2連隊(英語版)に転じた[4]。1844年1月、陸軍から引退した[5]。クリケット選手であり、1841年にメリルボーン・クリケット・クラブに所属した[6]。
1847年イギリス総選挙でダンフリーズシャー選挙区(英語版)から出馬して無投票で当選、1852年イギリス総選挙でも無投票で再選した[7]。1850年8月31日にダンフリーズ統監に任命され、1858年3月18日までに辞任した[8][9][10]。1853年1月4日に王室監査官(英語版)に任命され[11]、同年2月7日に枢密顧問官に就任した[12]。その後、1856年7月までに王室監査官を辞任した[13]。政治家として保守党所属とも[7]、ピール派所属ともされる[1]。
1856年12月19日に父が死去すると、クイーンズベリー侯爵位を継承した[2]。
1858年8月6日、ダンフリーズシャーのキンマウント(英語版)で銃の暴発により死去した[2]。自殺説もあり、『バーク貴族名鑑(英語版)』2003年版では事故かどうかが不明だとしている[1]。長男ジョン・ショルトが爵位を継承した[2]。 1840年5月28日、グレトナ・グリーンでキャロライン・マーガレット・クレイトン
家族
ガートルード・ジョージナ(Gertrude Georgina、1842年8月21日 ? 1893年11月25日) - 1882年11月、トマス・ストック(Thomas Stock)と結婚[2]
ジョン・ショルト(1844年7月20日 ? 1900年1月31日) - 第9代クイーンズベリー侯爵[2][1]
フランシス・ウィリアム・ブーヴェリー(英語版)(1847年2月8日 ? 1865年7月14日) - マッターホルンで事故死[2][1]
アーチボルド・エドワード(英語版)(1850年6月17日 ? 1938年2月13日) - カトリックの聖職者[2][1]
男子(1853年1月1日 ? 1853年1月2日[2])
ジェームズ・エドワード・ショルト(1855年5月25日 ? 1891年5月5日) - 1888年9月4日、マーサ・ルーシー・ヘネシー(Martha Lucy Hennessy、1854年 ? 1941年1月31日、フレデリック・ヘネシーの娘、リチャード・ヘネシーの未亡人)と結婚、子供なし[2][14]