アーセナルFC
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アーセナルFC
原語表記Arsenal Football Club
呼称AFC
愛称ガナーズ(The Gunners)
クラブカラー    赤
    白
創設年
1886年
所属リーグプレミアリーグ
ホームタウンロンドン
ホームスタジアム

エミレーツ・スタジアム
収容人数60,432
運営法人 クロエンケ・スポーツ&エンターテイメント(英語版)
代表者 スタン・クロエンケ
監督 ミケル・アルテタ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

アーセナル・フットボール・クラブ(Arsenal Football Club、イギリス英語発音: [???s?nl ?fut?b??l kl?b])は、イングランドの首都ロンドン北部をホームタウンとする、プレミアリーグに加盟するプロサッカークラブ。ガナーズ(Gunners)の愛称で知られる[1]。1886年に軍需工場の労働者のクラブとして創設され、チームのエンブレムには大砲が描かれている。

2003-04シーズンに達成した無敗優勝を含める3回のリーグ優勝記録(フットボールリーグ時代を含めると13回)、FAカップにおいては最多となる14回の優勝記録を持つ。ホームスタジアムはロンドンのエミレーツ・スタジアム(収容人数60,432人)。

クラブのモットーは「勝利は調和の中から生まれる(ラテン語: Victoria Concordia Crescit)」。1949年から使用されたクレストに初めて登場する。現行のクレストは2002年から使用されており、大砲の上にサンセリフ体でチーム名が書かれている。
歴史
創成期(1886年-1920年)1888年のアーセナルの選手達創立当時の1888年に用いられたアーセナルのロゴ

1886年、ロンドン南東部ウーリッジ地区にあった王立造兵廠(ロイヤル・アーセナル)の労働者がダイアル・スクエア(Dial Square)のチーム名で結成した。1886年12月11日に初めての試合をイースタン・ワンダラーズと行い、6-0で勝利。しばらくしてロイヤル・アーセナル(Royal Arsenal)と名称を変更した。1891年にプロ化を果たし、1893年にウーリッジ・アーセナル(Woolwich Arsenal)へと改称、フットボールリーグ2部に加盟すると、1904年に1部へ昇格した。地理的要因により集客力が悪かった影響で、1910年に破産状態に陥り、ヘンリー・ノリス(英語版)に買収された。ノリスは2部に降格後の1913年、チームをロンドン北部のハイベリー地区にあったアーセナル・スタジアムに移転させると、1914年に名称から「ウーリッジ」が外され、現在の名称となった。

1919年に5位でシーズンを終えるも、近隣のライバルであるトッテナム・ホットスパーを差し置いて1部昇格を果たす。これが両チームの激しいライバル関係の端緒となったという見方もある。
ハーバート・チャップマンの時代(1925年-1940年)

1925年、ハーバート・チャップマンが監督に就任する。チャップマンによる革新的な戦術やトレーニング法の導入、アレックス・ジェームス(英語版)やクリフ・バスティン(英語版)といったスター選手の獲得が、1930年代にアーセナルがイングランドサッカーを支配する礎となった。チャップマンの下で1929-30シーズンに初のFAカップ優勝、1930-31シーズンに初のフットボールリーグ優勝を果たす。

スタジアム最寄りの地下鉄の駅名を「ギレスピー・ロード」から「アーセナル」へと変更させたのもチャップマンの手腕によるものと言われている[2]。ロンドンの地下鉄の中でサッカークラブのチーム名が駅名となっているのはアーセナルだけである。

夜間の試合のためにハイベリーのウェストスタンドに投光照明器を採用したのもチャップマンがリーグで初めてであったが、イングランドサッカー協会はその使用を50年代まで認めなかった。

リーグにおいて選手の背番号制を初めて導入したのもチャップマンである[2]。アーセナルだけでなくサッカーの近代化に大きな貢献をしたチャップマンは、1934年に肺炎で急逝した。その死後ジョー・ショー(英語版)、続いてジョージ・アリソン(英語版)が監督を引き継ぎ、2人の下でアーセナルはチャップマン時代の1932-33、1933-34シーズンを含めたリーグ3連覇、2回のリーグ優勝(1934-35、1937-38シーズン)と2回のFAカップ優勝を果たした。しかし、1939年9月の第二次世界大戦の勃発と共にリーグは中断を余儀なくされた。
戦後初のダブル、フェアーズカップ(1947年-1980年)1949年から2002年にかけて用いられていたエンブレム

第二次世界大戦後、アリソンの後を継いだトム・ウィタカー(英語版)の下でも1947-48、1952-53の2回のリーグ優勝、1949-50のFAカップ優勝を成し遂げるが、その後チームは、50年代はメジャーなタイトルを獲得することなく終わる。

1966年、クラブのフィジオセラピストだったバーティー・ミー(英語版)が予想外に監督へ抜擢されると、2度のリーグカップ準優勝を経て、1969-70にクラブ史上初のヨーロッパでのタイトルとなるインターシティーズ・フェアーズカップを獲得。更に1970-71にリーグ優勝とFAカップ優勝のダブルを達成した。ダブルを達成したメンバーが徐々にチームを離れていくと、1970年代はタイトル獲得の一歩手前で足踏みするシーズンが続く。リーグ2位、3度のFAカップ準優勝、UEFAカップウィナーズカップ準優勝がこの間の成績で、獲得したタイトルは1978-79シーズンのFAカップである。マンチェスター・ユナイテッドを終了間際のゴールにより3-2で破ったこの試合は、アーセナルの歴史における名勝負の一つに数えられている。
ジョージ・グラハムの時代(1986年-1995年)

1986年に就任したジョージ・グラハムは元アーセナルの選手であり、クラブに第3の黄金期をもたらした。就任1年目に初のリーグカップ優勝。1988-89シーズン、アラン・スミス がリーグ得点王となる23得点を挙げ、シーズン最終節で優勝を争っていたリヴァプールをその本拠地アンフィールドでロスタイムに下すという劇的なものだった。

1990-91シーズン、このシーズンもアラン・スミスが22得点で得点王に輝く活躍もあり、1敗のみでリーグ優勝、1992-93シーズン、イアン・ライトらの活躍でFAカップとリーグカップを獲得、1993-94シーズンにはアラン・スミスのゴールでカップ・ウィナーズ・カップを獲得。選手獲得の際にリベートを受け取っていたことが明らかとなって、1995年にグラハムは解雇された。後任はブルース・リオッホ(英語版)が務めたが、彼も1シーズンで退任した。
アーセン・ベンゲルの就任と無敗優勝(1996年-2005年)2003-04シーズン、プレミアリーグ優勝の黄金トロフィーを受け取るキャプテンのパトリック・ヴィエラ

1990年代後半から2000年代にかけての成功は、1996年に就任したアーセン・ベンゲルの手腕によるところが大きい。ベンゲルは新たな戦術、トレーニング法を導入すると同時に、イングランド人を補完する形で外国人選手を獲得した。食事制限や禁酒の徹底、外国人選手の登用などがプレミアリーグ全体にもたらしたインパクトは大きく、多くのチームや監督がベンゲルの影響を受けたと言われている。アーセナルは伝統的にフィジカルを前面に押し出した守備的な戦い方で知られており、1990年代後半は「フェイマス4」と呼ばれた4バック(トニー・アダムスナイジェル・ウィンターバーンリー・ディクソンマーティン・キーオン)とゴールキーパーデビッド・シーマンを擁して堅固な守備を誇った。


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