アーサー王
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九偉人の一人としてのアーサー王のタペストリー1385年頃)

アーサー王(英語: King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人君主アーサー王像
アルブレヒト・デューラー作、ペーター・ヴィッシャー鋳造、1480年頃、インスブルック宮廷内教会)[1]

中世の歴史書や騎士道物語では、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。一般にアーサー王物語として知られるものはそのほとんどが民間伝承や創作によるものであり、アーサー王が実在したかについては2017年時点でも歴史家が議論を続けている[2]。彼の史実性を証明する記述は『カンブリア年代記(Annales Cambriae)』、『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)』、およびギルダス著『ブリタニアの略奪と征服(De Excidio et Conquestu Britanniae)』に断片的に残されている。また、アーサーという名前は『ア・ゴドズィン(Y Gododdin)』などの初期の中世ウェールズ詩にも見られる[3]

伝説上の王としてのアーサー王は、12世紀ジェフリー・オブ・モンマスによる歴史書『ブリタニア列王史(Historiae Regum Britanniae)』が人気を博したことにより国を越えて広まった[4]。ジェフリー以前のウェールズブルターニュの伝承にもアーサー王に関するものが存在するが、それらの中では超自然的な存在や人間からブリタニアを守る屈強な戦士として、あるいはウェールズ人のあの世であるアンヌン(Annwn)に関係を持つ魔法的な人物として描かれている[5]1138年に『列王史』を書き上げたとされるジェフリーがこれらをどれほど利用したか、利用したとしてその割合は彼自身が創作した部分より多かったかなどについては詳しくわかっていない。

アーサー王伝説は作品によって登場人物、出来事、テーマがかなり異なるため、原典となる作品が存在しない。ただし、ジェフリーの『列王史』が後の作品群の出発点になったことは確かである。ジェフリーの描くアーサーは、サクソン人を撃退し、ブリテンアイルランドアイスランドノルウェーガリア(現在のフランス)にまたがる大帝国を建設した人物となっている。アーサーの父ユーサー・ペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィアエクスカリバーティンタジェル城モードレッドとの最終決戦(カムランの戦い)、アーサー王の死とアヴァロンへの船出といった、現在のアーサー王物語になくてはならない要素やエピソードの多くがジェフリーの『列王史』の時点ですでに登場している。12世紀のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワはこれらにさらにランスロット聖杯を追加し、アーサー王物語を中世騎士道物語の題材の一つとして定着させた。ただし、フランスのロマンスでは、アーサー王よりも円卓の騎士を始めとするほかの登場人物に話の中心が移っていることが多かった。アーサー王物語は中世にひろく流行したが、その後数世紀のうちに廃れてしまった。しかし、19世紀に人気が復活し、21世紀の今でも文学としてのみならず、演劇映画テレビドラマ漫画ビデオゲームなど多くのメディアで生き続けている。
実在性の議論詳細は「アーサー王の史実性(英語版)」を参照

アーサー王伝説の実在性は学者によって長期にわたり議論されてきた。最初のアーサーの言及は9世紀ラテン語のテキストに見られる。『ブリトン人の歴史』と『カンブリア年代記』の記述を根拠に、アーサーは実在の人物で、5世紀後半から6世紀初めにアングロサクソン人と戦ったローマン・ケルトの指導者だったとする説がある。『ブリトン人の歴史』は、ウェールズの修道士ネンニウスの作とされる9世紀のラテン語の歴史書で、いくつかの写本に残されている。これにはアーサーがブリトン人の王達と共にサクソン人との12回にわたる戦を行った事、最後の戦バドニクス山(ベイドン山)の戦いで、アーサー側の一度の襲撃により一日で960人の敵を倒し大勝利に終わった事が書かれている。しかし、最近の研究では『ブリトン人の歴史』の信用性に疑問が投げかけられている[6]

もうひとつのアーサーの史実性を証明する史料は、10世紀の『カンブリア年代記』である。これもアーサーをバドニクス山の戦いと関わりのある人物としている。『カンブリア年代記』によると、この戦いが行われたのは518年のことで、メドラウド(モードレッド)とアーサーが討ち死にしたカムランの戦い539年に起きたとされる。従来はこの記述が『ブリトン人の歴史』の記述の信用性を保証するものであり、アーサーが本当にバドニクス山の戦いを行ったことを証明するものとされてきた。しかし、『ブリトン人の歴史』を補強する史料として『カンブリア年代記』を利用することに対し、いくつかの問題が指摘されている。最新の研究によると『カンブリア年代記』は8世紀後半のウェールズの年代記を元にしているという。しかし、『カンブリア年代記』は複雑な経緯を経て成立した作品で、アーサーの記述が8世紀後半の時点で存在していたことを確かめることは困難である。本来この記述はまったく存在せず、10世紀になってはじめて他の資料を参考にして追加された可能性がある。逆に、バドニクス山の箇所は『ブリトン人の歴史』に由来するのかもしれないのである[7]

このように、アーサーの歴史性を証明する、信頼できる初期の史料は非常に乏しい。そのため現代の多くの歴史家がローマ影響下時代のブリテン島の歴史叙述でアーサーを除外している。歴史家トーマス・チャールズ=エドワーズは、「現段階では、アーサーという人物はいたかもしれない、としか言いようがない。歴史家としてアーサーを評価することは不可能である」としている[8]。このような見方が最近の比較的一般的な見解である。少し前の世代の歴史家はもっと楽観的で、歴史家ジョン・モリスは著作『アーサーの時代』でアーサーの統治時代をローマ帝国以後のブリテンとアイルランドの歴史の初期段階に置いている。ただし、モリスは歴史上のアーサーについてほとんど何も記述していない[9]カンブリア年代記の手写本 c. 1100

以上のような、限定的にせよアーサー王の史実性を認める説に対し、アーサーという人物は歴史上全く存在しなかったと主張する説がある。考古学者ノーウェル・マイヤーズは前述のモリスの『アーサーの時代』に対し、「歴史と神話の境界に立つ人物に歴史家が時間を費やすようなことは一度たりともない」と述べている[10]6世紀ギルダスの『ブリタニアの略奪と征服』は、バドニクス山の戦いの記憶がまだ残る時代に書かれたものである。にもかかわらず、戦い自体の記述はあるもののアーサーについては何も書かれていない[11]。『アングロサクソン年代記』にもアーサーの記述はない。もうひとつのポスト・ローマ時代のブリタニアの重要な史料である8世紀ベーダの『英国民教会史(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)』も、バドニクス山には触れているがアーサーの名は書かれていない[12]。それどころか、400年から820年に書かれたあらゆる写本にはアーサーは名前すら登場しないのである[13]。歴史家デーヴィッド・ダンヴィルは次のように書いている。「われわれはアーサーに関し、非常に簡潔に事を済ませることができると思う。彼が歴史書に登場するのは「火の無い所に煙は立たぬ」と考える学者がいるからである。この問題は実際のところ、アーサーの歴史性を証明する証拠はまったく存在しないという、ただそれだけのことだ。アーサーを歴史書に書き加えてはならないし、アーサーに関する本を歴史書と呼ぶべきではない[14]。」

アーサーは最初から民間伝承(フォークロア)の架空の英雄だったのだ、と主張する学者もいる。ヘンギストとホルサ(本来はケントの氏族神で馬を司る神だったが、後世に歴史上の人物とされた。ベーダの『英国民教会史』では、この二人は5世紀のアングロサクソン人によるブリテン島東部の征服を指導した人物になっている。)との類似点を指摘して、アーサーも実は半ば忘れ去られたケルトの神で、後に歴史上の出来事に結び付けられたとする学説もある[15]。なお、初期の史料によると同時代の人々はアーサーを王と考えていなかったらしい。『列王史』や『カンブリア年代記』には彼の称号として「王(rex)」が使われておらず、『列王史』では「戦闘指揮官(dux bellorum)」、あるいは単に「兵士(miles)」と呼ばれているにすぎない[16]


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