アーサー・フィリップ
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アーサー・フィリップ
Arthur Phillip

生誕1738年10月11日
グレートブリテン王国
イングランドロンドン
死没 (1814-08-31) 1814年8月31日(75歳没)
イギリス
イングランドサマセットバース
所属組織イギリス海軍
最終階級海軍大将
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アーサー・フィリップ(Arthur Phillip、1738年 - 1814年8月31日)は、イギリス海軍軍人および植民地行政官である。彼はオーストラリアにおけるヨーロッパの植民地初の提督である。
幼少期・軍人期

アーサー・フィリップは1738年ドイツ人の教師ジェイコブ・アーサーと、イギリス人女性の間の子としてロンドンで生まれた。母エリザベスはイギリス海軍の軍人と結婚しており、夫の死後ジェイコブと再婚した。アーサーは、グリニッジ病院の学校で学び、13歳のときに商船員として弟子入りした。

彼は15歳のときにイギリス海軍に入隊し、七年戦争中のミノルカ島の海戦に参加した。1762年中尉に任命されたが、1763年七年戦争が終わったときに現役を解かれ、半給状態となった。この時期に結婚し、ハンプシャーに牧場を買った。

1774年に彼はスペインに対する戦争に参加するため、ポルトガル海軍に入隊した。1778年に本国イギリスが戦争に反対したため、彼はイギリスに戻った。そして1779年に初めての自分の艦バシリスクを指揮することになった。1781年ユーロパの指揮をとることになったが、1784年には再び半給に戻ってしまった。
ニューサウスウェールズ総督期

1786年10月、彼はイギリス海軍の船シリウスの船長に任命され、同時にオーストラリア東海岸のイギリス流刑植民地であるニューサウスウェールズ総督に任命された。この任命は内務大臣トマス・タウンゼンド (初代シドニー子爵)によるものだが、大蔵省高官ジョージ・ローズの推挙があったとされる。彼はアーサーの牧場の近所に住んでいたため、アーサーが有能な男である事をよく知っていた。アーサーは48歳だった。

778人いた囚人の多くがロンドンのスラム窃盗犯だった。囚人の統制を担当する船員は一般から募集した。オーストラリアまでの長く危険な航海の船員を集めるのは簡単ではなかった。農業や建設、手工業の経験がある者が船員に含まれるべきという彼の意見は却下された。植民地の情報はジェームズ・クックの報告書以外になく、必要なものはすべてイギリスから運ばなければならなかった。彼は海軍の水兵と植民地を運営する役人と共に船に乗り込んだ。

船団はファースト・フリートと呼ばれ、11隻で構成した。1787年5月13日にポーツマス港を出港し、8カ月後の1788年1月18日先頭の船がボタニー湾に到着した。ボタニー湾は王立学会会長ジョセフ・バンクスが入植地として推薦した場所だったが、フィリップは安全な停泊所がないこの土地は入植に適さないと判断した。数日間の探検の後、彼はポート・ジャクソン湾に入ることに決め、1月26日には水兵と役人が湾内のシドニー・コーブに上陸した。

準備した物資は限られ、食料の生産は急を要したがシドニー・コーブの土地はやせており、慣れないテント生活と相まって混乱していた。囚人の多くはロンドン出身で、農業の経験がなかったことが混乱に拍車をかけた。囚人たちは農作業には反抗的で、農地の整備は進まなかったった。そのため植民地は最小限の食料配給を長期間続けなければならなかった。船員たちの士気は低く、囚人の統制には無気力だった。そのためアーサーは、囚人の中から監視員を選び他の囚人を監督させなければならなかった。これは1811年マッコーリー総督による改革で実現した囚人解放の伏線となった。

アーサーはイギリスを出発する前に「植民地には奴隷制は存在せず、従って奴隷は存在しない」と語っていた。しかし、彼は軍人として統制を重んじており、囚人の鞭打ちや絞首刑は容認していた。食糧の窃盗をした者は絞首刑に処された。

植民地の労働力として囚人たちの協力は必要不可欠だった。このため、彼らの権利を尊重することが求められた。航海中、二人の囚人が荷物を盗まれたとして船長を訴えようとした。当時イギリスの囚人には訴訟を起こす権利はなかったが、彼は訴訟を起こす権利を認めただけでなく、二人の囚人を支持し、訴えられた船長に補償を命じた。

食料不足の結果として壊血病が流行し、1788年10月にアーサーは物資を取り寄せるためにケープタウンへ船を派遣しなければならなくなった。この船団の司令官は、後に彼の後継として総督になるジョン・ハンターであった。

彼は先住民アボリジニのエオラ族(シドニー土着)とも対応しなければならなかった。彼は入植者に対してエオラ族を公正に扱わなくてはならないと命じ、彼らを殺した者は絞首刑にするとした。彼はベネロングというエオラ族の男に家を与え、通訳となるよう教育した。そして後に彼をイギリスに連れて行った。ベネロング・ポイントという地名がシドニーに残る。

アーサーはマンリービーチでエオラ族の男達と遭遇した時、誤解により背中をやりで突かれたが、使用人に口外しないように言った。入植者がエオラ族を不当に扱っている中で、彼は信頼していた。しかし、すぐに天然痘などのヨーロッパ人に持ち込まれた病気によってエオラ族の人口は急激に減少した。

彼は流刑植民地の運営は困難との認識を持っていた。彼が直面していた一番の問題は土地の支給を求める役人や士官たちに関してであった。彼らは食糧生産よりも土地を得ることに熱心になっていた。植民地の不動産投機は潜在的に高収益だった。アーサー・フィリップ
植民地の安定

シドニーの西20km程の所に農地に適した肥沃な土地(パラマタ)を発見し、1790年までに状況は安定した。彼は囚人ジェームズ・ルースにパラマタの農場を与え、食料を生産するように命じた。約1400人の住民の多くは家を持ち、食物を自給できるようになった。1790年6月にイギリスから第2陣の船団が到着した。しかし、この船団には100人以上の囚人が乗っていたが、彼らのうちのほとんどが病弱で働くことができなかった。そしてイギリス船Siriusは1790年3月に難破しており必要な物資が失われていた。


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