この項目では、FRB議長について説明しています。SF作家については「アーサー・K・バーンズ」をご覧ください。
アーサー・フランク・バーンズ
第10代 連邦準備制度理事会議長
任期
1970年2月1日 ? 1978年3月8日
大統領リチャード・ニクソン
ジェラルド・フォード
ジミー・カーター
前任者ウィリアム・マチェスニー・マーティン
アーサー・フランク・バーンズ(Arthur Frank Burns, 1904年4月27日 - 1987年6月26日[1])は、アメリカ合衆国のエコノミスト。リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジミー・カーター政権下(1970年 - 1978年)で、第10代連邦準備制度理事会 (FRB) 議長を務めた。
経歴
1904年 オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィアのスタニスラウ(現在のウクライナ、イヴァーノ=フランキーウシク)で、ユダヤ人の両親の下に生まれる。
10歳のとき、両親と共にアメリカのニュージャージー州に移住した。
1925年 ニューヨーク州のコロンビア大学でBAとMAを取る。
1927年 ラトガース大学で経済学を教え始め、1944年まで務める。バーンズはラトガースで講義を続けながら、コロンビア大学大学院で研究を進め、博士課程で全米経済研究所(NBER)の創設者で経済学主任研究員のウェスリー・クレア・ミッチェル(英語版)に教わる。
1930年 全米経済研究所(NBER)に入る。
1934年 コロンビア大学より学位論文『1870年以降のアメリカ合衆国の生産動向』でPh.D.を得る。ウェスリー・クレア・ミッチェルの指導による。
1944年 コロンビア大学の経済学教授になる(21年間その地位にいた)。
1953年 - 1956年 ドワイト・アイゼンハワー政権下で大統領経済諮問委員会委員長を務める。
1957年 全米経済研究所局長を務める(その間にコロンビア大学で教鞭を執り、景気循環を研究した。コロンビアで彼はマレー・ロスバードの1819年の恐慌に関する論文の承認を妨げた)[2]。
1970年 - 1978年 連邦準備制度理事会(FRB)の議長となる。
1984年 ロナルド・レーガン大統領に任命され、西ドイツ駐在大使となる。
1987年 83歳で死去。
人物
大学卒業後、1927年にラトガース大学で経済学を教え始め、バーンズは講義を通じて、ミルトン・フリードマンが経済学者になることを決意する上で重要な影響を与えたとされる二人の教授のうちの一人であり、もう一人はホーマー・ジョーンズ(英語版)である。バーンズは、1932年のラトガーズ大学の卒業生であるフリードマンに、近代経済学が世界恐慌を終わらせるのに役立つと確信させていた[3][4]。
1940年代後半以降、有名なアメリカの反ケインズ主義者だった。しかし1953年の不況では、大統領経済諮問委員会委員長だったバーンズは共和党の伝統的な修辞法を用いながらも、超党派の経済政策として大規模な減税、公共事業、金融緩和を提案する[5]。