アーサー・コナン・ドイル
[Wikipedia|▼Menu]

アーサー・コナン・ドイル
Arthur Conan Doyle
1914年6月1日のコナン・ドイル
誕生1859年5月22日
スコットランドエディンバラ
死没 (1930-07-07) 1930年7月7日(71歳没)
イングランドクロウバラ
職業作家医師政治活動家
言語英語
国籍 イギリス
最終学歴エディンバラ大学医学部
ジャンル推理小説歴史小説SF小説、政治・社会問題、心霊主義
代表作シャーロック・ホームズシリーズ
チャレンジャー教授シリーズ
ジェラール准将(英語版)シリーズ
『ホワイト・カンパニー(英語版)』(1891年
主な受賞歴ナイト(1902年)
配偶者ルイーズ(1885年-1906年
ジーン(1907年-1930年
署名
テンプレートを表示

アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル[1][注釈 1]英語: Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, KStJ, DL, [???rθ?r ?g?ne??(i)?s ?ko?n?n / ?k?n?n ?d??l][9]発音例1発音例2, 1859年5月22日1930年7月7日)は、イギリス作家医師政治活動家

推理小説歴史小説SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる[10]。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー(英語版)』やジェラール准将(英語版)シリーズなどを著している。

1902年ナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た[注釈 2]
概要

1859年5月22日スコットランドエディンバラ測量士補チャールズ・ドイル(英語版)の息子として生まれた。アイルランド系カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(→出生と出自)。

伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年エジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(→学生時代)。大学卒業後、医師として診察所を開業した(→医師として)。

患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1887年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(→副業としての初期の執筆活動)。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』などで小説家として成功した(→小説家としての成功)。

1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者はまったく来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(→眼科への転身失敗と執筆業一本化)。

1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(→シャーロック・ホームズの大ヒット)。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将(英語版)シリーズの連載を開始した(→歴史小説を志向)。

1900年ボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた(→戦地医療奉仕活動)。同年10月に行われた解散総選挙(英語版)に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した(→総選挙に出馬するも落選)。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を公刊して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(→英軍擁護運動)。

1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(→ホームズの復活)。

彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(→冤罪事件への取り組み)。

1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した(→タイタニック沈没事件をめぐる論争)。

1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:257 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef