アーサー・ウェイリー
[Wikipedia|▼Menu]

Arthur Waleyアーサー・ウェイリー
CH CBE
ウェイリーの肖像画(レイ・ストレイチー画)
生誕Arthur David Schloss
(1889-08-19) 1889年8月19日
イングランド ケント州タンブリッジ・ウェルズ(英語版)
死没1966年6月27日(1966-06-27)(76歳)
イングランド ロンドン
墓地ハイゲイト墓地
出身校ケンブリッジ大学 (中退)
主な業績中国・日本の文学作品の翻訳
配偶者アリソン・グラント・ロビンソン (m. 1966)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

アーサー・デイヴィッド・ウェイリー(Arthur David Waley CH, CBE1889年8月19日 - 1966年6月27日)は、イギリス東洋学者。中国日本の文学作品の翻訳で高い評価を得た。1952年に大英帝国勲章、1953年に女王の詩の金メダル(英語版)、1956年にコンパニオンズ・オブ・オナー勲章を受章した[1]

高い学識を持ちながらも学術的な役職に就くことを避け、一般向けの本を書くことが多かった。1910年代から1966年に亡くなるまで、中国や日本の文学作品の翻訳を続けた。1918年の"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首)、1919年の"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」)のような詩の翻訳や、1925年から26年にかけての『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"、1942年の『西遊記』の翻訳"Monkey: A Folk-Tale of China"などの小説の翻訳で知られる。また、中国哲学の紹介や翻訳、文学者の伝記の執筆、アジアと西洋の絵画への言及など、生涯にわたって活動を続けた。

最近の評価では、ウェイリーは「中国と日本の高度な文学を、英語を読む一般の人々に伝えた偉大な人物。20世紀前半における東洋から西洋への大使」と評され、また「独学でありながら、両言語ともに顕著なレベルの流暢さ・博識さに到達した。これは、他にはない業績であり、(後に彼自身が述べているように)当時だからできたことであり、二度と起こらないことだろう」とも述べられている[2]
生涯

アーサー・ウェイリーは、1889年8月19日イングランドケント州タンブリッジ・ウェルズ(英語版)で生まれた。父は経済学者のデイヴィッド・フレデリック・シュロス(David Frederick Schloss)であり、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロス(Arthur David Schloss)だった。シュロス家は、ロスチャイルド家に連なるユダヤ系の名門である。

ラグビー校で教育を受け、奨学金を得て1907年ケンブリッジ大学キングズコレッジに入学し、古典学を専攻した。優秀な成績を収めたが、目の病気で勉強に支障をきたしたため1910年に退学した[3][注釈 1]

一時的に商社で働いた後、1913年より大英博物館に東洋版画・写本部門の学芸員として勤務した[3]。大英博物館での上司は詩人・学者のローレンス・ビニョンだった。ビニョンの指導のもとで、古典中国語古典日本語を独学で学んだ。また、語学交換教師として、当時ロンドン大学に留学していた八木秀次にも日本語を習っている[4]。しかし現代の中国語日本語を話せるようにはならず、生涯で中国や日本を訪れたこともなかった[3]

ウェイリーはアシュケナージ系ユダヤ人の血を引いている。1914年第一次世界大戦が勃発し、「シュロス」という名がドイツ系であることなどから警察によりスパイとの嫌疑をかけられたことがあったため、アーサーの提案により、一家で母の旧姓であるウェイリーに改姓した[5]。当時、他のドイツ系の姓を持つ多くのイギリス人も、イギリスで見られた反ドイツ的な偏見を避けるために姓を英語風のものに変えることが多かった[3]

1918年、イギリスのバレエダンサーで東洋学者、舞踊評論家・研究家のベリル・デ・ズーテ(英語版)と出会った。ズーテとは生涯にわたって交際したが、結婚には至らなかった[6]

1929年に大英博物館を退職した。以降は執筆と翻訳に専念し、第二次世界大戦中に情報省(英語版)に4年間勤務したほかは、定職に就くことはなかった[3]。1939年9月、ウェイリーは情報省の日本語検閲部門の責任者として採用された。オズワルド・タック(英語版)海軍大尉が補佐し、ロンドンに滞在している日本人ジャーナリストの日本語による通信文や私信、在英国日本国大使館からの外交信号などをチェックしていた[7]

ウェイリーはブルームズベリーに住んでおり、ブルームズベリー・グループには、学生時代からの友人が多くいた。ロナルド・ファーバンク(英語版)の才能を早くから認識していた一人であり、ファーバンクの作品集の初版に、オズバート・シットウェル(英語版)とともに序文を寄稿している。

エズラ・パウンドの尽力により、ウェイリーの最初の翻訳がアメリカの文学雑誌『リトル・レビュー(英語版)』に掲載された。しかし、パウンドからのウェイリーの評価は様々であった。1917年7月2日、パウンドは『リトル・レビュー』の編集者マーガレット・C・アンダーソン(英語版)に宛てた手紙の中で「ウェイリーによる白居易の翻訳をようやく手に入れた。いくつかの詩は素晴らしい。ほぼ全ての翻訳が、彼のまずい英語と不完全なリズムによって損なわれている...。なにか良いものを買って、彼に下手な仕事を取り除いてもらおうと思っている(彼はロバや「学者」のように頑固だ)」 と書いている。ウェイリーは『老子道徳経』の翻訳"The Way and its Power"の序文で、現代の西洋の読者にとって意味がより重要であると合理的に考えられる翻訳では、文章の形式よりも意味の方を優先するように気をつけたと説明している。

1966年5月にアリソン・グラント・ロビンソン(Alison Grant Robinson)と結婚したが、その1か月後の6月27日にウェイリーは死去した。遺体は、ハイゲイト墓地の西側の、彫刻家ジョセフ・エドワーズ(英語版)の墓の前にある無銘墓(英語版)に埋葬されている[8]

芸術批評家のサシェヴェレル・シットウェル(英語版)は、ウェイリーのことを、自分が知りうる限りで最も偉大な学者であり、人間のあらゆる芸術を最も理解している人物だったと評した。シットウェルは、ウェイリーの最期について次のように書いている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}彼は腰の骨折と脊椎の癌で瀕死の状態にあり、非常に大きな痛みを感じていたが、いかなる薬物や鎮静剤の投与も拒否した。彼は、最期の瞬間に意識を保っていたいと思っていたので、あえてそのようにしたのだ。天賦の才能は衰え、消えつつあり、それは二度と手に入れることはできない。彼は数日間、ハイドンの弦楽四重奏曲を聴き、好きな詩を読んでもらった。そして彼は死んだ[9]
業績

ジョナサン・スペンスは、ウェイリーの翻訳について次のように書いている。[ウェイリーは]中国と日本の文学の宝石を選び、それを自身の胸に静かに留めた。そのようなことは、それまでに誰もしなかったし、これからも誰もしないだろう。彼よりも中国語や日本語の知識が豊富な西洋人はたくさんいるし、おそらく両方の言語を扱える人も何人かはいるだろう。しかし、彼らは詩人ではないし、ウェイリーよりも優れた詩人たちは、中国語や日本語を知らない。また、この衝撃が再び訪れることはないだろう。ウェイリーが翻訳した作品の多くは、西洋ではほとんど知られておらず、それに故にその衝撃は驚くほどのものだったからである[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef