アーサ・キット
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アーサー・キット
Eartha Kitt
アーサー・キット(2007年)
本名Eartha Mae Keith
生年月日 (1927-01-17) 1927年1月17日
没年月日 (2008-12-25) 2008年12月25日(81歳没)
出生地サウスカロライナ州オレンジバーグ郡ノース
国籍アメリカ合衆国
職業歌手、女優
活動期間1943年 - 2008年
配偶者John "Bill" McDonald (1960年 - 1965年)
著名な家族娘:Kitt
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アーサー・キット(Eartha Kitt、出生名Eartha Mae Keith、1927年1月17日 ? 2008年12月25日[1]。アーサ・キットのカナ表記もなされる)は、アメリカ合衆国歌手女優キャバレー・スター。その極めて個性的な歌い方や、1953年のヒット曲「C'est Si Bon」、また、息の長いクリスマスのノベルティ・ヒット「Santa Baby」などによって知られている。オーソン・ウェルズは、キットのことを「世界一エキサイティングな女性」と呼んだ[2]。1960年代のテレビ・シリーズ『バットマン』の最後のシーズン(第3シーズン)で、キットは他の仕事との掛け持ちができなくなったジュリー・ニューマーに代わり、キャットウーマン役を引き継いだ。ディズニーのアニメ映画『ラマになった王様』(2000年)で、キットはイズマ (Yzma) の声を担当した。
経歴
生い立ち

キットは、本名アーサー・メイ・キース (Eartha Mae Keith) として、サウスカロライナ州コロンビアに近い、オレンジバーグ郡の小村ノース (North) の綿花プランテーションに生まれた。キットの母親は、チェロキーアフリカ系アメリカ人の血統を引いており、父親はドイツ系ないしはオランダ系の人物だった。キットは、強姦によって生まれた子どもであった[3][4]

アーサー(キット)は、アンナ・メイ・ライリー (Anna Mae Riley) というアフリカ系アメリカ人の女性に育てられ、この養母を実母だと信じきっていた。アーサーが8歳のとき、養母は同じアフリカ系の男性と同棲するようになったが、男性は、アーサーの肌の色が比較的白いことを嫌って、養女とすることを拒んだ[3]。このためアーサーは、他の家族に引き取られ、ライリーが没するまでその家で育てられた。その後、アーサーはニューヨーク市のマミー・キット (Mamie Kitt) のもとに送られて、一緒に生活することとなり、この女性が実母だと知ることになった[要出典]。アーサーは父については、姓はキットといい、おそらくは自分が生まれた農場の持ち主の息子だったのであろうということ以外は何も知らなかった[3]。もっとも、各新聞が報じたキットの訃報によれば、彼女の父は「貧しい綿花農家」であったとされる[5]
キャリア初期カール・ヴァン・ヴェクテン撮影のキットの写真。1952年10月。

キットのキャリアは、1943年のキャサリン・ダナム舞踊団 (Katherine Dunham Company) への参加から始まり、1948年までこの舞踊団に所属していた。特徴がある声をもった才能豊かな歌手として、キットは、「Let's Do It」、「Champagne Taste」、「C'est Si Bon」(スタン・フリーバーグ (Stan Freberg) はこの曲をもとに有名なバーレスクを制作した)、「Just an Old Fashioned Girl」、「Monotonous」、「Je Cherche Un Homme (I Want A Man)」といったヒット曲を出し、特に1953年にリリースされた「Santa Baby」は重要なヒット作となった。キットのユニークなスタイルは、ヨーロッパで公演を重ねていた数年間でフランス語に堪能になったことで、ますます磨きがかけられた。キットは、公演を英語で行なっていたが、いつも軽くフランス語の感覚が盛り込まれることで、より豊かなものになっていた。キットは4言語を話し、7言語で歌ったが、数多くのキャバレー公演のライブ音源が示すように、それを難なくこなしてみせている。
最盛期

1950年オーソン・ウェルズは、舞台『フォースタス博士』の「トロイのヘレン」役にキットを抜擢し、キットは初めて主役のひとつを演じることになった。その後、キットはレビュー『New Faces of 1952』の舞台に出演し、その後も永く彼女の持ち歌として知られることになった「Monotonous」と「Bal, Petit Bal」を歌った。1954年20世紀フォックスがこのレビューを映画化し『New Faces』を制作した際、キットは「Monotonous」、「ウスクダラ」、「C'est Si Bon」の3曲を歌った[6] 。ウェルズとキットは、キットが主演した1957年のミュージカル『Shinbone Alley』の公演期間中に関係を持ったのではないかと盛んに噂されたが、2001年6月に『ヴァニティ・フェア (Vanity Fair)』誌のジョージ・ウェイン (George Wayne) のインタビューに応えたキットは、きっぱりとこれを否定し、「私はオーソン・ウェルズとセックスしたことは1度もないわよ」、「一緒だったのは仕事がらみのときだけ、それっきりよ」と語った[7]。1950年代のキットは、このほか『The Mark of the Hawk』 (1957年)、『St. Louis Blues』 (1958年)、『Anna Lucasta』 (1959年) といった映画にも出演した。

キットは、トルコの民謡をもとにした「ウスクダラ」のように、アメリカ合衆国の聴衆にとって異国情緒のあるレパートリーももっていたが、1955年には「証城寺の狸囃子」を、ところどころ日本語を残した英語の歌詞で「Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)」としてレコーディングした[8]

1950年代から1960年代はじめにかけて、キットはレコーディングに加え、映画、テレビ、ナイトクラブへも出演し、ブロードウェイでは『Mrs. Patterson』(1954年 - 1955年)、『Shinbone Alley』(1957年)、短期間で打ち切られた『Jolly's Progress』(1959年)の舞台に立った[9]1964年には、カリフォルニア州サン・カルロス (San Carlos) のサークル・スター劇場 (Circle Star Theater) の開設を支援した。1960年代後半には、テレビ・シリーズ『バットマン』で、ジュリー・ニューマーからキャットウーマン役を引き継いだ。
反戦発言の影響

アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンの政権下であった1968年ホワイトハウスでの昼食会で反戦の発言をしたことがきっかけとなり、キットは多くの仕事を失ってしまった[10][11]。昼食会に招かれたキットは、大統領夫人レディ・バード・ジョンソンベトナム戦争について尋ねられ、「この国で最高の人たちを、撃たれて、潰されるために送っているんですもの。子どもたちが反抗して、を吸ったりするのも不思議じゃないわ」と応えたのであった。

やり取りの中で、キットは次のように述べた。アメリカの子どもたちは、理由もなく反抗しているわけではありません。子どもたちは理由もなくヒッピーになったりしません。サンセット大通り (Sunset Boulevard) で起きていることは、理由もなく起きているわけではありません。何かに対して、反抗しているんです。この国には、いろんな人たち、とりわけ母親たちを、焼け焦がすようなことがいっぱいあるんですよ。育てている息子たち?私にも分かることだけど、奥様にもお子様がおいででしょう?そういう人たちは、育てた息子たちを戦争に送り出さなければいけないんだって感じているんです

キットの発言に、ジョンソン夫人は涙を流したと言われているが、この発言は順調だったキットのキャリアを大きく狂わせることになった[12]


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