アーカート城
[Wikipedia|▼Menu]

アーカート城
スコットランドハイランドのドラムナドロッキット近隣
アーカート城とネス湖
アーカート城のグラント・タワー
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}アーカート城はインヴァネス市の行政区域の中にある
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯57度19分26秒 西経4度26分31秒 / 北緯57.324度 西経4.442度 / 57.324; -4.442
種類非耐力壁の城と城館
施設情報
所有者en:Historic Scotland
一般公開公開
現況廃墟
歴史
建設13世紀から16世紀
使用期間1692年以降

アーカート城(Urquhart Castle, listen[ヘルプ/ファイル]; スコットランド・ゲール語: Caisteal na Sroine、ウルクハートとも)は、スコットランドハイランド地方ネス湖そばにある。アーカート城の位置は、インヴァネスの南西21km(13mi)、ドラムナドロッキットの東2km(1.2mi)、A82の道路沿いである。中世初期の要塞の上に、13世紀から16世紀にかけて建造されたが、現在は廃墟となっている。

13世紀に創設され、14世紀にはスコットランド独立戦争の舞台となった。その後は王城となったが、マクドナルド一族のアール=ロスには何度も襲撃された。1509年、城はクラン・グラントに下付されたが、マクドナルドとの争いは続いた。その後も城は幾度か急襲を受けて増強されたが、17世紀の中ごろには打ち捨てられた。アーカート城は1692年、ジャコバイト軍の手に落ちるのを阻止するため、部分的に爆破され、荒廃した。20世紀に州の管理下に置かれ、市民に公開されるようになった。現在は、スコットランドでも最も観光客の多い城となっている[1]

城は、スコットランドでも大きい湖であるネス湖を見下ろす岬の突端に位置している[2][3]。西に入口を持ち、堀と跳ね橋で守られていた。岸辺の上に主な囲い地が2つあり、建物はその囲い地の周りに建てられていた。北の囲い地には、門番小屋をはじめ現存する建物のほとんどが集中しており、城の北端には5階建てのグラント・タワーがある。南の囲い地は、より高い位置にあり、初期の建物の残骸が少し残っているだけである。
歴史
中世初め

アーカートの名前は、7世紀の語形「エアチャーダン」(Airdchartdan)に由来する。「Airdchartdan」は、ゲール語の「air」(「そば」の意)と、古ウェールズ語の「cardden」(「木、茂み」の意」)からなる[4]。中世初めの築城に特有のビトリファイドの石片が、20世紀初めにアーカート城で発見された[5]。アーカート城は、北ピクト人の王ブライディ1世の要塞であったという仮説に基づき、レスリー・アルコック教授は1983年、発掘調査を行った。アイオナ修道院修道院長アドムナンによる著作『聖コルンバの生涯』には、562年から586年にかけて、聖コルンバが何度かブライディ王を訪れたと記録されている。しかし地理の詳細はほとんど語られていない[5]。アドムナンはまたこの訪問の際、聖コルンバが、死の床にあったピクト人貴族エムチャス(Emchath)と、その息子ヴィロレック(Virolec)、彼らの家族を、「エアチャーダン」と呼ばれる場所でキリスト教に転向させたと記録している[6]。発掘品を放射性炭素年代測定法により調査し[7]、城の南西角にある岩山は、5世紀から11世紀の広い砦の名残であることが明らかになった[8]。この調査結果に基づきアーカート城は、居城のあるインヴァネスか西のクレイグ・ファドレイグに拠点を置くブライディ1世の要塞ではなく、エムチャスの住居であるとアルコック教授は結論付けた[9][10]
初期の城

12世紀、ウィリアム獅子王はアーカートに王城を持っていたという識者もあるが[11][12]、アルコック教授はその論証を発見することはできなかった[13]。12世紀と13世紀に、マルカム3世の孫マクウィリアムス(Meic Uilleim)は、デイヴィッド1世とその後継者に何度も襲撃をしかけた。最後の襲撃の記録は1229年である。秩序維持のため、アレグザンダー2世は自分のHostarius(守衛もしくは門衛)のトーマス・デ・ランディン(Thomas de Lundin)にアーカートを下賜した。 数年にランディンが死ぬと、アーカートは息子のアラン・デューワード(Alan Durward)に引き継がれた[14]。城の原型はこの後まもなくに、敷地の南西のモットの上に建てられたと考えられている[13]。1275年、アランの死後、王はアーカートを、バデノッホの領主ジョン・カミン2世(John II Comyn)に授けた[14]

アーカート城の存在が最初に記録されているのは1296年、エドワード1世に占拠されたときである[13]。エドワードの侵略をきっかけに起こったスコットランド独立戦争は、1357年まで断続的に続いた。エドワードはウィリアム・フィッツワリン卿を城守に任じて、城をイングランドの制圧下に置いた。1297年、ウィリアムはインヴァネスからの帰途、アンドリュー・マレー卿の待ち伏せを受けた。その後モーレイは城を包囲して夜襲をかけたが、不首尾に終わった[15]。1298年、アーカートは再びスコットランドに制圧され、イングランドは駆逐された。1303年には再びイングランドの襲撃を受けたが、アレクサンダー・デ・フォーブ卿は防御に失敗した[16]。このときエドワードは、ジョン・カミンの兄弟アレクサンダー・カミンを総督として置いたため、一族はイングランドの側についてロバート1世に敵対した。1306年にジョン・カミン3世が殺害されると、ロバート1世はカミン一族を破り、1307年にグレート・グレン峡谷を進軍、インバーロッキー、アーカート、インヴァネスを落城させた[17]。これ以降、アーカートは王城となり、城守がおかれるようになった[18]城の最初期の部分、13世紀のモットやShell keep型の遺構が残存している。

1329年のアーカートの城守は、クアレルウッドのロバート・ローダー卿だった。1333年のハリドン・ヒルの戦いでスコットランドが敗北した後、ローダー卿は他のイングランド勢の侵略からアーカート城を守るために戻った。この時期、スコットランドが持ちこたえていた城はたった5つだったが、アーカート城はそのうちの1つだった[nb 1]。1342年、デイヴィッド2世はアーカートで夏の狩猟時期を過ごしたが、彼はアーカートで過ごした唯一の王である[18]

それ以降の200年間、グレート・グレン峡谷は、アイル領主マクドナルド氏族の急襲をしばしば受けた。彼らは西スコットランドを強力に統治して半独立王国とし、ロス伯爵位を要求していた。1395年、アイル領主ドーナルはアーカート城を王から奪い、15年以上守り抜いた。1411年、ハーラウでイングランド王の派との戦いに臨むため、ドーナルは谷を進軍した。はっきりとした決着はつかなかったが、ドーナルはその後主導権を失い、王はすぐにアーカートを指揮下に置いた[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef