A Coruna
州 ガリシア州
県ア・コルーニャ県
コマルカア・コルーニャ
司法管轄区ア・コルーニャ
面積37.8 km2 [1]
教区数5
標高0m
人口244,099 人 (2017年[1])
人口密度6,457.65 人/km2
住民呼称corunes/-esa
ガリシア語率15.84% (2011年[2])
自治体首長
(2015年
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度22分16秒 西経8度23分44秒 / 北緯43.37111度 西経8.39556度 / 43.37111; -8.39556座標: 北緯43度22分16秒 西経8度23分44秒 / 北緯43.37111度 西経8.39556度 / 43.37111; -8.39556
⇒ア・コルーニャ公式サイト
ア・コルーニャ(ガリシア語: A Coruna)[4]またはラ・コルーニャ(スペイン語: La Coruna)は、スペイン・ガリシア州ア・コルーニャ県のムニシピオ(基礎自治体)。大西洋に面した港湾都市であり、ア・コルーニャ県の県都である。ガリシア統計局によれば、2013年の人口は245,923人(2012年:246,146人、2011年:246,028人、2010年:246,047人、2007年:244,388人)[1]で、ビーゴに次ぐガリシア州第2の都市。自治体の正式名称はガリシア語のA Corunaだが、定冠詞なしのCorunaや、スペイン語の名称La Corunaも使われる。住民の呼称はcorunes、corunesa(コルニェス、コルニェサ)。
近隣の自治体アベゴンド、アルテイショ、ベルゴンド、カンブレ、カラル、クジェレード、オレイロス、サダとコマルカ(コマルカ・ダ・コルーニャ、県と市の中間単位)を構成。
ア・コルーニャは大西洋における重要な港で、この地域の農産物の集散地となっている。造船業や金属加工業など重工業の多くは近隣のフェロルにあるが、ア・コルーニャには石油精製所が建てられている。
近隣の自治体アルテイショには、日本にも出店し、近年成長著しいアパレル産業のザラ(ガリシア語およびスペイン語読みではサラ)を展開するインディテックスの本拠地がある。
ガリシア語話者の自治体住民に占める割合は15.84%(2011年)。 この地には、先ローマ時代から人間が住んでいた。紀元前62年にカエサルが訪れたときは、ケルト系のアルタブロス族がア・コルーニャとフェロルの湾に居住していた。ローマ人はこの地を「ブリガンティウム」と名付け、港を建設した。重要な港であったため、灯台エルクレスの塔が建てられた。ローマ時代のものとしては現存する唯一の灯台で、現在も利用されている。 「コルーニャ」の名は、ローマ人のオッピドゥムだった「カロニウム」(語源は不明)を由来としている。12世紀のフェルナンド2世の時代には「クルニア」の名が最初に文献に現れる。 中世には一時的にイスラム教徒に占拠された。アルフォンソ9世がこの地に住人を移し、1188年に特権を与えたために、旧市街の人口が増え始めた。アルフォンソ10世が塩の荷揚げと販売を無税としたために町は発展した。フアン2世は1446年に町に「都市」の称号を与えた。カルロス1世は香辛料の通商院を設立し、この施設の防衛のためにサン・アントン城を建設した。サンティアゴ巡礼者もイギリス・オランダ等からこの港に到着し、聖地エルサレムへ向かう十字軍兵士もサンティアゴ教会に立ち寄った。14世紀後半にはイギリスとの定期航路が開かれ、物資が行き来した。コルーニャの戦い 16世紀、ア・コルーニャはイギリスのエリザベス1世とスペインのフェリペ2世との対立に巻き込まれた。1588年、リスボンを出発した無敵艦隊はア・コルーニャ港に寄港してからイギリス海峡に出撃し、大敗した。
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