アヴィニョン教皇庁
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アヴィニョン教皇庁
Palais des Papes
遠景
所在地フランス、アヴィニョン
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度57分03秒 東経4度48分27秒 / 北緯43.9508度 東経4.8075度 / 43.9508; 4.8075座標: 北緯43度57分03秒 東経4度48分27秒 / 北緯43.9508度 東経4.8075度 / 43.9508; 4.8075
建築様式ゴシック建築

世界遺産
登録名: アヴィニョン歴史地区
区分文化遺産
基準i, ii, iv
登録日1995年 (19回世界遺産委員会)
登録コード ⇒228
UNESCO regionヨーロッパ

アヴィニョン教皇庁(全体像)

アヴィニョン教皇庁(フランス語: Palais des papes d'Avignon, ラテン語: Palatium paparum)は、1309年から1377年まで7代にわたる教皇アヴィニョン捕囚から教会大分裂の時代、南フランスアヴィニョンに設けられていた教皇宮殿(教皇庁)。

アヴィニョンに教皇が遷座された原因は、1303年の教皇ボニファティウス8世の死後、枢機卿団が分裂して教皇選挙(コンクラーヴェ)の実施に困難が生じたこと、および、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランスフィリップ4世(端麗王)の干渉に求められるが、これらに加えイタリア半島における教皇領での無政府状態がそれに拍車をかけた[1]
概要・沿革アヴィニョン教皇庁(正面)

1252年に建設が始まった。
アヴィニョン捕囚詳細は「アヴィニョン捕囚」を参照

ローマ教会とフランス王国の対立における中立派として教皇に選出されたボルドー司教クレメンス5世1309年、フィリップ端麗王の干渉の下でのローマ入城を諦め、気に入った滞在先を求めてフランス中を旅した[1][2]。そして結局、一度もローマを訪れることなく、プロヴァンス伯領内にあり、現在は南仏ヴォクリューズ県の県庁所在地となっているアヴィニョンのドミニコ会修道院に落ち着き、そこに教皇庁を仮設した[1][2]

続くヨハネス22世ベネディクトゥス12世クレメンス6世の3教皇は、アヴィニョンに城砦風の大宮殿と市街を取り囲む城壁の建造を進め、1348年、プロヴァンス女伯(兼ナポリ女王ジョヴァンナが8万フローリンにものぼる金貨でアヴィニョン全市を購入、次のインノケンティウス6世の在位期間のうちに、難攻不落をめざした教皇領都市の建設が完遂した[1]。ベネディクトゥス12世はまた、アヴィニョンに図書館を設置する事業に取り組んでいる[3][注釈 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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