アヴィス家
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アヴィス王朝(アヴィスおうちょう、Dinastia de Avis、ポルトガル語発音: [??vi?])は、ポルトガル王国王朝。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガルを支配した。
概要

創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する[1]

エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋インド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した[1]

香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。
歴史
成立の背景

13世紀のレコンキスタの達成(敵対的ムスリム勢力の排除)後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、騎士修道会が支配する南部地域に三分される[2]1348年秋に流行した黒死病によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、リスボンコインブラなどの都市部は深刻な被害を受ける[3][4]。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する[4]。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁にコルテス(身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった[4]

黒死病の流行前からポルトガルと隣国のカスティーリャ王国の関係は悪化しており、ポルトガル王フェルナンド1世はカスティーリャ王国の王位継承権を主張して3度の戦争を実施するが、戦争はポルトガルの敗北に終わる[5]。戦争の結果ポルトガルの国土は荒廃し、戦後の和約でカスティーリャ王フアン1世とフェルナンドのただ一人の子であるベアトリスの結婚が取り決められたため、ポルトガルがカスティーリャに併合される可能性が生じた[5]

1383年10月にフェルナンド1世が没した後、ベアトリスがポルトガル女王に即位した。大貴族メネゼス家出身の王太后レオノール・テレス(英語版)が摂政となり、貴族らと共に専制政治が始まった。戦争に疲弊し、経済的に困窮する都市の下層民や職人層の反乱がベアトリスの即位前から各地で勃発し、都市下層民と一部の貴族はカスティーリャとの戦争で利益を得たレオノールとその寵臣であるオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視していた[6]
王朝の創始「ポルトガル空位時代(英語版)」も参照アルジュバロータの戦い

1383年12月、フアン1世はレオノール派を援護するためにポルトガルに侵攻し、グアルダを占領した[7]。ポルトガル王ペドロ1世、フェルナンド1世に仕えた大法官アルヴァロ・パイスはペドロ1世の庶子でアヴィス騎士団団長のジョアンを説得し、一部のリスボン市民と協力してアンデイロを殺害する。反乱軍はジョアンを「王国の統治者、防衛者」に奉じ、蜂起の知らせが全国に広がると各地で民衆の暴動が発生した[7]1384年1月にレオノールはサンタレンまで進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を委譲し、ポルトガル国内は親カスティーリャ派の大貴族とアヴィス派の下層民・ブルジョアジー・中層貴族に分裂する[7]

当初アヴィス派は不利な状態に置かれていたが、カスティーリャのリスボン包囲に耐え抜いた後にアヴィス派の巻き返しが始まり、1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル国王に選出され、ジョアン1世(大王)として即位する[7]。同年8月にジョアン1世はリスボン北方のアルジュバロータの戦いでフアン1世が率いるカスティーリャ軍を破り、ポルトガルは独立を守り抜いた[7]

カスティーリャ王国と対抗する政策上、ポルトガル王国はブルゴーニュ王朝以来のイングランド王国との同盟を強化し、イングランドとの同盟が外交の軸となる[8][9]1386年、ポルトガルとイングランドの間にウィンザー条約が締結され、ジョアン1世はイングランド王エドワード3世の孫娘フィリパと結婚した[9]
西アフリカの探検「大航海時代」も参照エンリケ航海王子

1411年にジョアン1世は王位継承者である長男のドゥアルテを共同統治者とする[10]1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結んだ後、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ[11]、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた[12]

ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへの金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図った[12]。当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先はモロッコの港湾都市セウタに変更された[12][13]1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る[14]。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている[15]

しかし、アフリカ大陸の金はセウタを避けて他の地中海沿岸の都市に供給されるようになり、セウタの周辺では依然としてイスラーム勢力による抵抗が続いていた[16]。セウタの処理を巡ってモロッコでの勢力の拡大を主張するドン・エンリケ(エンリケ航海王子)の派閥とセウタからの撤退を主張するドン・ペドロの党派に二分された[13][16]。以後アヴィス朝のアフリカ政策はモロッコでの勢力の拡大を主張する派閥と西アフリカ沿岸部での貿易の強化と拠点の確立を主張する派閥によって左右されるようになる[12]

ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世(雄弁王)は、1437年タンジェ十字軍を派遣するが遠征は失敗し、従軍していたアヴィス騎士団長ドン・フェルナンドが捕虜とされ、フェルナンドはモロッコのフェズで生涯を終える。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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