アン・キャロル・ムーア
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アン・キャロル・ムーア
Anne Carroll Moore

生誕アニー・キャロル・ムーア[1]
1871年7月12日[2]
メイン州ヨーク郡リメリック[3]
死没1961年1月21日[4]
NEW YORK[4]
国籍 アメリカ合衆国
別名アニー・キャロル・ムーア[2]
職業図書館員
著名な実績児童サービス、児童書評
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アン・キャロル・ムーア(Anne Carroll Moore、1871年7月12日 - 1961年1月20日)は、アメリカ図書館員児童文学評論家。キャロライン・ヒューインズ(Caroline Hewins)とともに、児童図書館の先駆者として知られている。
生涯
生誕から学生時代

メイン州リメリックの出身[3]。20歳でブラッドフォード・アカデミーを卒業するが、1892年に両親が相次いで他界、それを機にニューヨークに移り住み、ブルックリンにあるプラット学院で図書館学を専攻する[3]
図書館員時代
プラット学院の児童図書館

ムーアは1896年にプラット学院を卒業すると、そのまま同校の附属図書館に採用されて児童図書館の担当となる[3]。彼女はそこを児童が好む装飾で飾るとともに、ストーリーテリングを重視した児童サービスを行った[3]。プラット学院の図書館には図書館長メアリ・ライト・プラマーがいた[5]。プラマーは1894年から図書館長を務め、児童図書館の設置にも寄与した人物で[5]、このプラマーの勧めでムーアはプラット学院の児童図書館の担当者となった[6]

プラット学院卒業直後、ムーアはクリーブランドでのアメリカ図書館協会(ALA)に向かい、当時ハートフォード公共図書館長を務めていたキャロライン・ヒューインズと出会った[7]。共に児童サービスに関心の高かったヒューインズとムーアは1900年アメリカ図書館協会に児童図書館クラブを創設し、初代議長となった[8]。この児童図書館クラブはALAの児童サービス部会へと発展した[8]

ムーアはプラット学院の児童図書館を開架式の公開図書館とし、貸出を行った[8]。また、テーマ別の図書リストや、図書の展示、登録の誓約、そしてストーリ―テリングを取り入れるなど、今日の児童サービスの基盤となるようなサービス[6]を提供した[8]。また、学校と協力したサービスもこの頃から始めている[8]
ニューヨーク公共図書館Anne Carroll Moore, 1914

1906年ニューヨーク公共図書館の館長ジョン・ショウ・ビリングスに請われて同図書館の児童図書の責任者となった[9][10]。当時、ニューヨーク公共図書館には35の分館があり[11](65分館という説もある[10])、ムーアは全ての分館に児童室を設置した[11]。ムーアは全分館を回って児童担当者と会合を持つようにした[10]。そして、児童室の利用の年齢制限を廃止し[10]、ノンフィクションの蔵書を増やし、ストーリーテリングの時間や展示、学校へのサービスなどを行った[11]

1911年ニューヨーク公共図書館本館が新設され、館内に児童サービスの中心となる児童室も設置された[10]。ムーアはこの児童室を色鮮やかに飾り付け、子ども向けの内装にした。このしつらえはその後の児童図書館のモデルとなった[10]。この頃、ボストンで児童書専門店を作る計画を立てていたバーサ・マホーニー・ミラーにも会っている[12]。ムーアは『週刊出版人のメルチャーや「アメリカ・ボーイ・スカウト」のマシューズと組んで、1919年から「児童図書週間」を開始した[10]
児童書評に取り組む

1919年頃は、アメリカでは児童図書の出版が盛んだったが、その質は玉石混交であった[10]。ムーアは図書館に子どもに読ませたいよい本が少ないという考えから[13]、児童図書の書評を行うようになった。ムーアは1918年から1926年まで、『ザ・ブックマン』の児童書評欄を担当した[13]。『ザ・ブックマン』は1926年に廃刊となっている[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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