アンワル・アッ=サーダート
محمد أنور السادات
エジプト・アラブ共和国
初代 大統領
任期1971年9月2日 – 1981年10月6日
アラブ連合共和国
第2代 大統領
任期1970年10月15日 – 1971年9月2日
(1970年9月28日から10月15日まで大統領代行)
アラブ連合共和国
第10・17代 副大統領
ノーベル賞受賞者
受賞年:1978年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:キャンプ・デービッド合意
ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(アラビア語: محمد أنور السادات, ラテン文字転写: Mu?ammad Anwar al-S?d?t, 1918年12月25日 - 1981年10月6日)は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。 ファーストネームは「ムハンマド・アンワル」と2語1組の複合名でこのひとまとまり全てがファーストネームとなる。しかしながら公人として有名になったためムハンマドが省略され単にアンワルとのみ呼ばれるようになったことから、単に「アンワル・アッ=サーダート」や日本式に定冠詞を省いた「アンワル・サダト」とすることが広く行われている。 ラストネームの「アッ=サーダート」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本では存命中から現在に至るまで、外務省[1]や新聞・報道は一貫してサダトと表記しており、一般にはこちらの方がより広く知られている。 サダトは1918年、ミヌーフィーヤ県のミト・アブー・アル=クムで貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として生まれた。1937年末にはカイロの王立陸軍士官学校1期生を卒業し[2]、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附としてマンカバド
名前
経歴
自由将校団への参加とエジプト革命
第二次世界大戦中の1942年、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団はエル・アラメインまで進撃していた。祖国解放を目指したサダトはゲズィーラ島のザマーレク(英語版)にナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応してカイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した[4]。さらに、イギリスの圧力で解任された参謀総長アジズ・エル・アル=マスリ(英語版)がドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも[5]、離陸直前に飛行機が大破して失敗した。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員(サラム作戦(英語版))が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる[5]。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサダトの愛人であったとのち告白しているがサダトはこれを否定している[5]。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。1944年に脱獄し終戦までカイロの日本庭園で潜伏した。
士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥル=ナセルとともに自由将校団を結成し、1952年のクーデター(エジプト革命)に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し国民に革命の発表を行なった。 革命によって1953年、エジプトは王制を廃止し共和制へ移行した。サダトは新政府のリーダーとなったナセルを支え、ナセル政権が成立した1954年、国務大臣に就任する。1958年にナセルがエジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、その初代大統領の地位に就くとサダトも翌年連合国務長官に任命された。さらに1960年から1968年まで人民議会
ナセル政権下で