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出典検索?: "アンリ" フランス公
アンリ
Henri
ブルボン=オルレアン家
フランス公にしてパリ伯アンリ(2014年4月)
全名Henri Philippe Pierre Marie
アンリ・フィリップ・ピエール・マリー
称号パリ伯
フランス公(フランス語版)
出生1933年6月14日
ベルギー、ヴォリュウェ=サン=ピエール
死去 (2019-01-21) 2019年1月21日(85歳没)
フランス、ドルー
埋葬 フランス、ドルー、王室礼拝堂
配偶者マリー・テレーゼ・フォン・ヴュルテンベルク
ミカエラ・コウシーニョ・イ・キニョーネス・デ・レオン
子女一覧参照
マリー
フランソワ
ブランシュ
ジャン
ウード
父親アンリ
母親イザベル
宗教キリスト教カトリック教会
サイン
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アンリ・ドルレアン(フランス語: Henri d'Orleans, 1933年6月14日 - 2019年1月21日)は、フランスの旧王家であるオルレアン家の当主、フランス王位請求者(1999年6月19日 - 2019年1月21日)。名目上のフランス国王「アンリ7世(Henri VII)」として、正統派の一部(=連合派)と伝統的なオルレアン派に支持された。パリ伯(フランス語: comte de Paris)およびフランス公(フランス語版)(フランス語: duc de France)の儀礼称号を用いた。 先代のパリ伯アンリとその妻イザベル(ブラジル旧皇族ペドロ・デ・アルカンタラ・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサの長女)の長男として生まれる。当時、1886年亡命法
生涯
1940年に祖父のギーズ公ジャンが死去して父アンリがオルレアン家家長になると、父によってドーファンに叙せられた。
1947年、ヴァンサン・オリオールの特別法令(デクレ)によってフランス入りを許されて[1]、1953年以降、パリに居住。その後はパリ政治学院へ進み、1957年、同学院公共政策専攻のディプロマを修了。アルジェリア戦争に従軍した。 1957年、遠縁にあたるマリー・テレーゼ・フォン・ヴュルテンベルク
結婚と子女
マリー・イザベル・マルグリット・アンヌ・ジュヌヴィエーヴ(フランス語版)(1959年 - ) 1989年、リヒテンシュタイン侯子グンダカー(フランス語版)(ハンス・アダム2世の再従弟)と結婚
フランソワ・アンリ・ルイ・マリー(1961年 - 2017年) クレルモン伯。長男だがトキソプラズマ症による障害があり、彼が父に先立つまでオルレアン家ではアンリの後継者をめぐる論争があった。
ブランシュ・エリザベート・ローズ・マリー(1962年 - )前マダム・ロワイヤル(名目上?2019)。
ジャン・カール・ピエール・マリー(1965年 - ) ヴァンドーム公。2009年、フィロメナ・デ・トルノス・イ・ステインハルトと結婚。2019年、パリ伯、フランス公。
ウード・チボー・ジョゼフ・マリー(英語版)(1968年 - ) アングレーム公。1999年、伯爵令嬢マリー=リース・ド・ロアン=シャボーと結婚
離婚と再婚、継承権剥奪アンリと妻ミカエラ・コウシーニョ(フランス語版)
マリー=テレーズとの夫婦仲は悪く、1977年に別居状態になり[1]、1984年2月には離婚(市民婚)が成立した[1]。
1984年10月、チリ系移民の血を引くミカエラ・コウシーニョ・イ・キニョーネス・デ・レオン(フランス語版)と再婚した。この再婚はカトリック教会からの承認を得ずに行ったためにオルレアニストの大部分から支持されず、父アンリの激しい怒りを買った。ミカエラとの再婚が原因で、父によって継承権とクレルモン伯の称号を剥奪され、代わってクレルモン伯より格下の称号であるモルタン伯に叙爵された。
1987年、父はアンリの息子ジャンを後継者に指名した[2]。 1991年、父アンリの態度が軟化したことで継承権とクレルモン伯の称号を回復し、1996年に継承者と定められた。1999年に父の死によって家督を継いだ。 2004年12月8日、甥シャルル=フィリップ・ドルレアンにアンジュー公の称号を授けた。 2009年3月にカトリック教会によってマリー=テレーズとの婚姻の無効が宣言され、同年9月にミカエラとの宗教婚が行われた。結婚式は9月26日、バスク地方の町アルカング 2019年1月21日の朝、薨去。奇しくもこの日はルイ16世の226回目の命日である。
継承権回復、家督相続
薨去と葬儀