アンリ・ベルクソン
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アンリ=ルイ・ベルクソン
Henri-Louis Bergson

生誕 (1859-10-18) 1859年10月18日
フランス帝国パリ
死没 (1941-01-04) 1941年1月4日(81歳没)
フランス国パリ
時代19世紀の哲学
20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派大陸哲学
フランス・スピリチュアリスム
研究分野形而上学認識論
言語哲学
数学の哲学
主な概念「持続」など
影響を受けた人物

セーレン・キェルケゴール
ブレーズ・パスカル
バールーフ・デ・スピノザ
イマヌエル・カント
エミール・デュルケーム
フェリックス・ラヴェッソン
ウィリアム・ジェームズ
ジュール・ラシュリエ
チャールズ・ダーウィン
ハーバート・スペンサー
フリードリヒ・シェリング
ゴットフリート・ライプニッツ
メーヌ・ド・ビラン
プロティノス
その他多数

影響を与えた人物

ジル・ドゥルーズ
ウラジミール・ジャンケレヴィッチ
西田幾多郎
九鬼周造
エマニュエル・レヴィナス
ガブリエル・マルセル
ジャック・マリタン
モーリス・メルロー=ポンティ
ジャン=ポール・サルトル
エリック・フェーゲリン
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
ムハンマド・イクバール
ジョルジュ・ソレル
マックス・シェーラー
ハイデッガー
ニコス・カザンザキス
エミール・ブレイエ
マルセル・プルースト
その他多数

署名
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1927年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [b??ks?n] ⇒発音例1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランス哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
生涯
幼少期

作曲家ピアニストのミハウ・ベルクソン(英語版)の子として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通り (現在のパリ9区 Rue Lamartine) で生まれる。父ミハウはポーランドユダヤ人で、母はイギリス人だった(妹のミナは、イギリスのオカルティスト、マグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザース(英語版)と名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。母によって、早くから英語に慣れ親しんだ。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、ノルマンディー地方マンシュ県に移り居を構える。
学生時代

パリ9区のリセ・フォンタネ(現在のリセ・コンドルセ)で古典学と数学を深く修めた後、パリ大学で人文学を専攻し、パリ高等師範学校に入学した。そこでの哲学担当の教授たちは、新カント派ばかりであったため、ベルクソンは、教授たちに反発しながら、一方でハーバート・スペンサーの著作を熟読して、実証主義社会進化論への理解を深めた。それらを通し自己の哲学大系を形成していった。1881年に受けたアグレガシオンでは、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をした。そのため、審査員の不興を買うことになり、ベルクソンは2位での合格となった。
『時間と自由』

合格後、リセ教師となったベルクソンは、アンジェのリセ・ダビッド=ダンジェ (Lycee David-d'Angers) 、クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ=パスカル (Lycee Blaise-Pascal de Clermont-Ferrand) などで教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして、ベルクソンは、1888年ソルボンヌ大学に学位論文「意識に直接与えられたものについての試論」(英訳の題名は「時間と自由意志」)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で、ベルクソンは、これまで「時間」と呼ばれてきたものは、空間的な認識を用いることで、本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものであると批判した。そして、ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("duree")と呼び、この考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。
『物質と記憶』

1896年には、ベルクソンは、哲学上の大問題である心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。この本は、ベルクソンにとって第二の主著であり、失語症についての研究を手がかりとして、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身問題に取り組んでいる。

すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。
コレージュ・ド・フランスへ

1900年よりコレージュ・ド・フランス教授に就任し[1]1904年にはタルドの後任として近代哲学の教授に就任する。1914年に休講(1921年正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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