アンリ・ファーブル
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ジャン=アンリ・ファーブル

生誕1823年12月21日
フランス王国アヴェロン県、サン・レオン
死没 (1915-10-11) 1915年10月11日(91歳没)
フランス共和国、セリニャン・デュ・コンタ
国籍 フランス
研究分野生物学
主な業績アリザリン精製の工業化、昆虫学の普及、動物行動学の開拓
主な受賞歴レジオンドヌール勲章
プロジェクト:人物伝

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(フランス語: Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 - 1915年10月11日)は、フランス博物学者であり、また教科書作家、学校教師、詩人としても業績を遺した。昆虫行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をし、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる。

ポータル 生物学

ポータル 文学

目次

1 概説

2 経歴

2.1 サン・レオン ? トゥールーズ ? モンペリエ

2.2 アヴィニョン ? カルパントラ ? コルシカ

2.3 アヴィニョン ?オランジェ

2.4 セリニアン


3 昆虫の習性研究

4 進化論への批判

5 その他

5.1 パスツールとのやりとり

5.2 オック語の詩と歌

5.3 ファーブルの知名度


6 脚注

7 昆虫記

7.1 他の著書の日本語訳


8 評伝・研究

9 参考文献

10 外部リンク

概説

1823年12月21日、南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。7歳の時祖父母のいるマラヴァルから呼び戻され、父母と弟のフレデリックの4人で暮らせる様になり、小学校に入学した[1]。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島アヴィニョンを経てセリニアン(セリニャン・デュ・コンタ)で暮らし、様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって[誰によって?]業績が評価されていった。ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、古くからの昆虫愛好文化をもつ[要出典]日本でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。
経歴 ナダールの撮影によるアンリ・ファーブル

ファーブルは、ギリシア、ローマ、パレスチナ、サラセンの文化に培われたプロバンスの地に生涯を送った[2]
サン・レオン ? トゥールーズ ? モンペリエ

ファーブルの父方の祖父は、羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず、様々な手伝い仕事を転々とした。母のヴィクトワール・ジョルゲは、大規模な自作農であった妻の実家サルグ家に経済的援助をあおぎ、妻の婦人用皮手袋作りの内職で生計を立てるなど一家の生活は貧しかった。サン・レオンの家で生まれた。ファーブルは4歳から7歳までの間、弟のフレデリックの育児や母の内職を妨げないために、20km程離れた父の郷里マラヴァルの祖父の家に預けられた。自然豊かな環境で育ったことが、その後の人生に影響を与えたと言われている[要出典]。7歳になって、学校に行くためにサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。

1833年、ファーブルが10歳の時に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。依然一家は貧しかったが、両親が教育には理解があったこと、王立中学校の礼拝堂で司祭ミサを手助けして聖歌隊の役を務めることを条件に学費が免除されたこともあって中学校に進学、ラテン語ギリシア語で優秀な成績を収めた。しかし接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れることとなった。父はその後オーヴェルニュトゥールーズモンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて、中学2年に相当する第5学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学で学問を続けることとなる。
アヴィニョン ? カルパントラ ? コルシカ

1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。3年後には師範学校を首席で卒業、1842年の春、小学校上級教員免状を取得した。その後、もう一段上の仕事へ付くために、独学で数学と物理、化学をも習得した。しかし、こんな間にも昆虫のことは頭から離れなかった。[3]

カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、1844年、21歳で同じ学院の教師である2歳年上のマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。両親はこの結婚に酷く反対した。この時期に最初の娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。
アヴィニョン ?オランジェ

アヴィニョンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き、同時に研究資金を稼いで大学教授となるための財産基準を満たすために、染料の材料であるアカネの研究に没頭した。そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得ることになる。しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。


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